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岩沼市

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岩沼藩三万石ものがたり

更新日:2023529

 

はじめに

岩沼藩三万石 イメージマーク

岩沼藩イメージマーク

■イメージマークについて

 当時の家紋の一つである九曜紋と岩沼のシンボルであった松と千貫山、岩沼藩に多大な影響を与えた阿武隈川をもとに図案化しました

当市も参加した「仙台・宮城【伊達な旅】キャンペーン」。政宗や伊達家があらためて観光客の興味を引きました。ところでこの時代、岩沼ではどうだったでしょうか。「岩沼駅の所にお城があった!」皆さんご存知でしたか?そして、『岩沼藩』という独立した藩が存在した!?・・・あったんです。こうなると、ご存知の方は本当に少ないでしょう。藩内藩ではありますが、格式は紛れもない大名でした。
  それでは、岩沼藩を開いたのは誰か?なんと、かの政宗の孫、(むねよし)。政宗正室(めごひめ)の遺言により、田村家を再興した人です。岩沼で殿様といえば?・・・古内氏ですね。その古内氏の治世の間にわずか20年あまりですが、田村氏による『岩沼藩三万石』の時代がありました。その後、2代目(むねなが。のちの(たけあき))が一関へ領地替えになり、残念ながら岩沼藩は1681年に廃藩。奥の細道の旅で芭蕉が「武隈(二木)の松」を見て感動し、賞賛の一首を詠ずる8年程前のことです。
  岩沼市では現在、新たな市史の編纂を行っており、調査などから岩沼藩の様子が少しずつわかってきました。2011年が開藩350年の節目にあたることも。そこで、この機会に多くの皆さんに知っていただくため、紹介します。歴史が好きな方はもちろん、苦手な方もぜひご一読いただきたいと思います。 (広報いわぬま2010年1月号掲載)

鵜ケ崎城址

 ↑岩沼城(要害)は、岩沼駅の所にあり、現在の鵜ケ崎城址は、城の北西の端にあたると考えられています。

 

第1話 岩沼藩の成立(前編) ~2人の遺言~

 岩沼藩はどのようにしてできたのか。岩沼藩は、仙台藩から三万石を分け与えられて成立したので、仙台藩の歴史抜きには語れません。そこで、岩沼藩成立以前の仙台藩の頃にのこされた2人の遺言から話を始めます。
  まずは1653年、政宗の奥さん愛姫(めごひめ)の遺言です。「田村家の名前を復活させてほしい」・・・愛姫の実家、現在の福島県三春にあった田村氏は、豊臣秀吉奥州仕置(※おうしゅうしおき)で途絶えました。それでこのような遺言となったのですが、これを受け、政宗の孫の宗良(むねよし。後の岩沼藩初代藩主)が田村の姓を名のり、田村家を再興しました。
  2つ目は、岩沼古内氏初代となる古内主膳重広。しゅぜんしげひろ)の遺言です。重広は、仙台藩主政宗に見出され、その子忠宗(ただむね)の側近になりました。その後、忠宗が2代藩主になると重広は奉行(ぶぎょう)に抜てきされ、岩沼のお城(要害)を与えられます。重広忠宗の政治の中心的な役割を担い活躍しますが、忠宗が1658年に死去すると重広も同じ日、追って切腹します。その時、重広は「心配なことが2つある。1つは、若殿(3代藩主綱宗(つなむね))が大酒を飲まれること。もう1つは、伊達兵部殿(兵部宗勝。ひょうぶむねかつ)の才知に藩内でおよぶ者がいないこと」と遺言したとされています。まさに、その後の仙台藩を揺るがす御家騒動(「伊達騒動」)を予見していたともとれる言葉で、伊達兵部がすでに仙台藩内でかなりの影響力を持っていたことがうかがえます。兵部は後に岩沼藩と同時に成立する一関藩の藩主となります。
  以上、2つの遺言から始まる岩沼藩成立の物語。続きをお楽しみに。

奥州仕置:1590年に行われた豊臣秀吉による東北地方に対する領土仕置のこと。これにより、秀吉の天下統一が完成する。

伊達家系図

≪こばなし①≫   愛姫の夢桜

 政宗の妻である(めごひめ)はある時、「鮮やかな色をした花の枝振り」を夢に見ました。その日、息子忠宗の側室の懐妊が判明。生まれたのが宗良です。愛姫が孫の宗良に断絶した実家の田村家の再興を託したのは、その夢がとても強く印象に残っていたからではないかと言われています。

田村氏の大名復活を果たした田村宗良←田村氏の大名復活を果たした田村宗良

 

第2話 岩沼藩の成立(後編) ~三万石の地~

 1658年に仙台藩2代藩主忠宗(ただむね)が死去すると、綱宗(つなむね)が3代藩主になります。古内重広(しげひろ)が遺言したように、綱宗は酒癖が悪く、酒色におぼれて藩政を顧みなかったので、伊達家の家臣や親族大名は「このままでは仙台藩が幕府によって取り潰しになってしまう」と危惧しました。家臣の諌言(※かんげん)なども聞き入れられなかったため、伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ)たちは親族大名と相談し、綱宗を隠居させることなどを幕府に願い出ます。
  幕府は、1660年に綱宗の強制隠居と子の亀千代(かめちよ。後の綱村(つなむら))への家督相続を命じます。ところが、4代藩主となった亀千代はまだ2歳。そこで、後見人として選ばれたのが、伊達兵部田村宗良(むねよし)です。後見人にふさわしい格を与えようとしたのか、2人は一関と岩沼に、仙台藩からそれぞれ三万石の領地を分与され、仙台藩の家臣という身分から大名に格上げになります。
  ところで、なぜ一関と岩沼だったのでしょうか。兵部は一関に所領を持っていたので、その周りを加えて三万石。一方、田村の所領は岩ヶ崎(現在の栗原市栗駒)。これを機に岩沼に所替えとなり、岩沼にいた古内氏が代わりに岩ヶ崎に移っています。岩沼が交通上・治世上、仙台藩の中でも非常に重要な土地であったことが“三万石の地”として選ばれた理由の1つのようです。
  さて、こうして田村宗良によって開かれた岩沼藩三万石。しかし、綱宗の強制隠居に始まるこれらの出来事が、仙台藩を落ち着かせるどころか、以後10年以上にわたる「伊達騒動」の発端となってしまうことを、当時は誰も予測できなかったのかもしれません。

諫言:目上の人の非をいさめること、また、その言葉

 

第3話 後見人VS筆頭奉行(前編) ~藩境の確定~

 幼い藩主の後見人として大名になった田村宗良(むねよし、岩沼藩三万石)と伊達兵部宗勝ひょうぶむねかつ。一関藩三万石)。しかし、ある男が2人の前に立ちはだかります。仙台藩の筆頭奉行奥山大学常辰だいがくつねとき)です。
  本来なら、奉行衆は、後見人の指示を受け、藩政運営を行うはず(後見人政治)。しかし、奥山常辰は「仙台藩のため」と、後見人をけん制します。
  はじまりは、岩沼藩の境界問題。岩沼藩は、最初は名取川から南となるはずでした。ところが奥山は仙台城下に近すぎると反対。結局飯野坂・笠島(現名取市)から南の地になりました。そして、奥山は代わりに自分の所領である村田を岩沼藩領に組み込みます。岩沼藩への配慮?・・・本当にそうでしょうか。これを機に奥山は仙台藩内で最も肥沃な黒川郡吉岡に所替えをしています。なお、一関藩の境界をめぐっても奥山兵部の思い通りにはさせませんでした。(第4話に続く)

後見人田村むねよしと筆頭奉行奥山つねとき←後見人 田村宗良と筆頭奉行 奥山常辰

                       ◇  ◇  ◇  ◇
さて、ここからは余談ですが・・・、この奥山常辰(つねとき)は岩沼と少し関わりがあります。常辰の伯父である奥山出羽(兼清。でわかねきよ)は、政宗の時代、最初の奉行の1人として岩沼館(城)主になりました。続いて、出羽の弟(常辰の父)が岩沼をおさめ、後に岩沼から村田に所替えをしました。このように、岩沼は奥山氏古内氏田村氏古内氏と、政宗の仙台開府以降、伊達家の重臣達が配された要地でした。

≪こばなし②≫   奥山出羽と野狐と竹駒さん

 奥山出羽(でわ)が鷹狩に出かけた際、野狐が出羽の愛鷹を食べてしまった。信心深い出羽でしたが、「狐は竹駒さんの使いだ」と、竹駒神社に行って「あの狐を懲らしめなければ初午の祭りをやめるぞ」と怒ったところ、狐はひどい罰を受けた。出羽は畏れ、一層神社を崇敬したとさ。【岩沼の民話(市老人クラブ連合会発行)より】                  

 

第4話 後見人VS筆頭奉行(後編) ~奥山の自滅~

 2人の後見人、田村宗良(むねよし。岩沼藩)と伊達兵部宗勝。ひょうぶむねかつ。一関藩)は将軍直属の大名として領地を支配しようとします。
  しかし、それを阻んだのが仙台藩筆頭奉行の奥山常辰(つねとき)。彼は、岩沼・一関両藩をなんとしても仙台藩領の一部と位置づけたかったのか、2人の藩政に何度も口出しをします。例えば、岩沼藩内に逃げてきた山形の百姓を、田村が仙台藩に無断で山形に送り返し、相互に送り返す申し合わせを作ろうとした時のこと。奥山は、「人返し」協定は本藩である仙台藩の権限だとして譲りませんでした。また、後見人領内の制札も仙台藩主の名で立てるべきだと抗議したのです。
  こうして奥山が両藩に干渉したものは6件にものぼり、「六カ条問題」として大きな政治問題になります。それでも奥山は一歩も退かず、他の奉行を差し置いて単独で老中(幕府)にかけあい、自分の主張にお墨付きを得ました。その結果、奥山の勝利で決着。田村は「奉行衆全体で相談して事を進めるはずではないか」と詰め寄りましたが、奥山は「殿のためであれば1人でも」とかわしたそうです。田村は当時25歳。20も歳の離れた老獪な奥山に完全にあしらわれたのでした。
  「六ヶ条問題」で全面勝利をおさめた奥山。しかし反面、後見人の面目をつぶし、他の奉行をないがしろにしたことで大きなしこりを残してしまいます。さらに、筆頭奉行の立場を利用した自分勝手な政治によって、藩内から次々に批判が噴出。四面楚歌に陥った奥山は、結局、辞表を出さざるを得なくなり、事実上の奉行職解任に追い込まれたのでした・・・。
               *  *  *  *  *  *
  こうして奥山は失脚。兵部をけん制できる人間がいなくなってしまったため、この後兵部による仙台藩政掌握が一層進み、田村を悩ませることになるのです。

制札:各種の禁令を町中に掲示したもの。立て札 老獪な奥山常辰

 

 

 

 ←若い田村と老獪な奥山

 

 

 

第5話 田村宗良VS伊達兵部(前編) ~不協和音~

 幼い仙台藩4代藩主の後見人となった田村宗良(むねよし)と伊達兵部宗勝。ひょうぶむねかつ)。しかし、当初、田村は老中(幕府)に3代藩主綱宗(つなむね)の復帰を願い出ます。さらに三万石への加増(領地を増やすこと)を辞退しようとしますが、兵部が反対したため、結局そのまま三万石の大名となりました。
  ところで、田村はなぜこのような動きをしたのでしょうか。・・・それは、田村兵部と同類に見られたくなかったから。実は、兵部が私利私欲のために綱宗を強制隠居に追い込んだ、という悪評があったのです。田村も幕府への綱宗隠居願いに連判署名をしていましたが、これは兵部らの強い要請に屈しただけ。田村・兵部両後見人の不仲は、藩内の噂になるほどでした。
 田村兵部は人事でも意見の食い違いを見せます。例えば、筆頭奉行奥山大学常辰。だいがくつねとき)との関係。兵部奥山は、六カ条問題で関係が悪化するまで(第4話参照)蜜月の間柄でした。田村奥山に警戒感を抱いていましたが、兵部はむしろ奥山を利用しようとしていたのです。奉行の増員について検討した際も、兵部奥山の弟を推薦したのに対し、田村“樅ノ木(※もみのき)は残った”で知られる原田甲斐(宗輔。かいむねすけ)を推挙。奥山派の増強を恐れた田村が、人事バランスをとろうとしたのでした。兵部原田の能力をまったく評価していませんでしたが、田村の意に反して原田は後に兵部の側近となり、仙台藩存亡の危機を招くことになります。
  こうして、翌年(1663年)、兵部と決裂し失脚した奥山と入れ替わるように、奉行原田甲斐が歴史の表舞台に登場してくるのです。

樅ノ木は残った…山本周五郎の歴史小説。伊達騒動に新しい解釈を加えて描いたもので、NHKの大河ドラマや時代劇スペシャルなど、テレビでも多数取り上げられている。

後見人間の不協和音

 

 

 

 

 

←後見人間の不協和音

 

第6話 田村宗良VS伊達兵部(後編) ~兵部、仙台藩政を握る~

 1663年、奉行が不足していた仙台藩では新しい奉行が任命され、田村宗良(むねよし。岩沼藩)が推した原田甲斐(宗輔。かいむねすけ。船岡)も奉行となります。その他の奉行は伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ。一関藩)の人選で決定。田村はそれに不満を示しますが、他に候補がいなくて押し切られてしまいます。
 兵部は、藩士や奉行を監察する〝目付(めつけ)〟を側近として重く用い、奉行や家臣への影響力を強めていきます。監視された奉行らは、本来は格下である目付の顔色をうかがうようになり、目付の勢いは奉行を超えるほどに。また、兵部を恐れる原田は、兵部とのつながりを深めて側近に加わります。こうして兵部は藩政の主導権を握ったのでした。仙台藩の後見人政治・・・。実情は兵部による側近政治だったのです。
  そんな中、1667年に藩内を騒がす席次(席順)問題が起こります。それは幕府の使者をもてなした際のこと。席次は家柄や役職をもとに慣例で決まっていたのに、目付を上座にしようと原田らが勝手に変更。下座に回されたのは、岩沼藩の前に岩沼を治めた古内重広(しげひろ)の息子(※1重門(しげかど))孫(※2)の2人でした。奉行格の家柄なのに、下位の目付や原田の子よりも下座に座らされたのです。面目を潰されて憤慨した2人は原田らに先例違反を問い詰め、重門の親族たちも激しく抗議。奉行衆は自分たちの権威を保とうと、兵部の同意を得て重門の処分を検討します。それを察知した重門ら兵部暗殺を企てるも失敗。命を狙われた兵部は激怒、厳罰を求めますが、ここでは減刑を主張した田村の意見が通りました。
  年長で叔父である兵部に遠慮し、あまり主張をしなかったとも言われる田村。しかし、藩政には厳しい目を持って要所できちんと意見を述べ、兵部としばしば対立したのでした。

※1 息子(重門):伊東重門。岩沼古内氏初代重広の息子。養子となり、伊東家を継いでいた。
※2 古内重定。岩沼古内氏初代重広の孫
原田甲斐の兵部の側近に

 

 

 

 

 

 

←原田甲斐が兵部の側近に

 

 

第7話 兵部政治の崩壊前夜

 後見人伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ。一関藩)の側近政治は、奉行の原田甲斐(宗輔。かいむねすけ。船岡)と目付(※1)らが横暴な振る舞いやひいき、大量処罰などを行ったため、仙台藩の多くの家臣から反感を買っていました。
  そんな中、重臣伊達安芸(宗重。あきむねしげ。涌谷)が行動を起こします。きっかけは領地の境界問題。仲裁に入った兵部のやり方に不満をもった安芸は、藩を越えて幕府に訴え、境界問題だけでなく兵部一派の悪政を告発します。
  1671年、幕府から事情を説明するよう呼び出しを受けた安芸は、家来の3分の1にも及ぶ250人の行列を従えて江戸へ出発します。なぜこんなに多くの家来を?…それは、自身の覚悟を見せつけ、さらに道中、兵部一派からの報復に備えたためでした。一方、身の危険を感じていたのは田村宗(むねよし。岩沼藩)も同じ。兵部と対立することが多かったので、告発により追い詰められた兵部一派が毒を盛るという噂があったのです。田村は、兵部の仲間がいる仙台藩の江戸屋敷に行った際には茶を飲まず、また、食事の出る場には姿を現さないという用心ぶりでした。
  江戸中がことの成り行きを見守る中、ついに安芸原田、仙台藩の他の奉行らが幕府に呼ばれます。審問を終え、控室に戻ったその時!! ――原田が突然刀を抜いて安芸の首に切りつけ、安芸は即死!そのまま老中の部屋に向かう原田と、そうはさせまいとした仙台藩の奉行らが切り合いに。駆けつけた大老家の家臣たちは、混乱の中、原田もろとも止めようとしていた奉行ら(※2)まで切ってしまった。―― 何という大惨事…。幕府から責任を追及された原田が、進退窮まり逆上して起こしたと言われるこの惨事は、仙台藩3代藩主伊達綱宗(つなむね)の強制隠居に始まる「伊達騒動」最大の事件となったのでした。
  当時、お家騒動は藩のとり潰しとなる大問題。仙台藩、そして後見人田村の命運はいかに!?

※1 目付:藩士や奉行の仕事や動きを観察する役人。
※2 奉行ら:(参考)仙台藩の奉行で唯一生き残ったのが、現場に居合わせなかった古内義如(よしゆき。岩沼古内氏初代重広(しげひろ)の甥)。
田村にも身の危険がせまる

 

 

 

 

 

 

 

←田村にも身の危険がせまる!?

 

第8話 後見人政治の終わり

 大老邸で起こった刃傷事件(第7話参照)。「仙台藩取りつぶしか!?」と江戸中の噂となり、仙台藩も騒然となります。幕府は、すぐさま江戸の仙台藩邸に「取りつぶしは無い」と伝え、落ち着かせようとしました。事件は原田甲斐宗輔。かいむねすけ)と伊達安芸宗重。あきむねしげ)らの私的な喧嘩とされ、幼少の仙台藩主伊達綱村(つなむら)は、藩政を後見人らに任せていたため不問となりました。つまり、責任は後見人にある、ということに…。
  後見人伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ)と田村宗(むねよし。岩沼藩)は、幕府から責任を問われます。幕府は騒動の原因について、藩主を支えるべき2人の後見人が不仲で役目を果せなかったためだ、と判断。特に兵部については、田村より年長なのに仙台藩政を混乱させた、と厳しく非難し、土佐藩にお預け処分(永久謹慎)に。領地と家来は仙台藩に返上させました(一関藩取りつぶし)。そして田村には、病気を理由に江戸に留まり岩沼藩領に行かなかったこと、結局兵部の言いなりだったことを指摘し、閉門(※1)処分としました(翌年1672年まで)。
  また、兵部一派の原田家では幕府の命による処刑で男子の血筋が途絶え、目付など残りの側近達にも厳しい処分が下されました。こうして騒動に幕が引かれたのです。
  さて、この頃には藩主綱村元服(※2)も済んでいたため、幕府の指示でこの後は後見人を置かない政治体制となります。もちろん田村も後見人ではなくなり、約10年間続いた後見人政治は終わりを告げました。
           ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
  ところで、岩沼藩の初代藩主田村宗良は、1676年、開藩からなんと16年程も経って初めて岩沼に来ます。しかし、2年後に江戸で死去。岩沼で過ごした期間は1年あまりでしたが、和歌などをいくつか残している田村は、短い滞在の間、歌枕として有名な「武隈の松(二木の松)」や「阿武隈川」を訪れたことでしょう。
  次回は岩沼に目を転じ、藩内の出来事をご紹介します。

※1 閉門…門を閉じて窓もふさがれ、出入りが一切禁止となる謹慎刑。
※2 元服…男子が成人になったことを示し、祝う儀式。

後見人体制の終了

 

 

←後見人体制の終了

 

第9話 家臣団の頑張り

 岩沼藩が成立すると、1662年までに田村家家臣団が旧領地の岩ヶ崎(現・栗原市栗駒)から岩沼に移ってきます。そして、江戸にいる藩主が参勤交代で岩沼に来た時に立派な城下で迎えようと、まちづくりに取りかかりました。まちを広げるため、奥州街道と並行して南北に走る桜小路(現・岩沼郵便局前の道路)を作り、まちの南北には足軽町(「南の町」と「北の町」)を、さらに職人が住む「片町」なども整備して、現在の岩沼の中央部の町割りがほぼできあがったと言われています。家臣団は300名ほど。岩沼の歴史の中で最も多くの武士がいました。
  家臣団は、岩沼藩領の範囲が検討されていた時、仙台藩筆頭奉行の奥山常辰(つねとき)らに対し、領地拡張を主張します。結局は奥山に封じ込められますが(第3話参照)、開藩当初、藩主田村宗良(むねよし)が大名として自立できるように実質的な藩政を担っていたのはこの家臣団でした。彼らの頑張りもあってか、当時は、竹駒神社の門前町としてにぎわったばかりでなく、参勤交代では、諸大名も利用する奥州街道の宿場町としても栄えました。
 ところが。1661年、岩沼を支えた産業の一つである馬市の開催日数が、100日から半分に減らされてしまいます。小野篁(おののたかむら※1)が始めたとされるこの馬市。全国の大名家から馬買人が訪れるほどの盛況ぶりで、町中に馬があふれたそうですが、その収益を狙ったのでしょうか、にぎわいの増す後半50日が仙台藩によって、仙台城下の国分町に移されました。岩沼の人々は猛反対し、田村家家老(※2)に訴えますが、願いはかなわず収益が激減。岩沼の馬市(※3)は一時衰退します。
  また、相次ぐ阿武隈川の洪水と凶作で主要産業である米作からの収益も落ち込み、岩沼藩は当初から厳しい財政状況の中でまちづくりを行わなければなりませんでした。大名の重要な責務である参勤交代もできないほど。頭が痛い田村とその家臣団でした…。

※1 小野篁…貴族。歌人としても有名で小倉百人一首にも名を連ねる。竹駒神社をつくり、同時に祭礼を盛んにするため馬市を始めたとされる。
※2 家老…家臣団のトップ
※3 馬市の衰退…衰退した馬市は、明治4年に軍馬購買地に指定されると、勢いを取り戻し、大正初期には軍馬の三大購買地に挙げられるほどに盛り返しました。

きびしい財政状況でのまちづくり

 

 

 

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第10話 2代藩主の厳しい船出

 岩沼藩初代藩主田村宗(むねよし)が1678年に亡くなると、息子の(たけあき)が家督を相続します。しかし、簡単には相続させてもらえませんでした。それは、亡くなった宗良が将軍直属の独立した大名として振舞おうとしたため、仙台藩の多くの重臣たちから「相続反対!」の声が上がったからです。岩沼藩をあくまでも仙台藩の一部として扱いたい重臣たちは、相続した建顕宗良と同じような態度を取るのを防ぎたかったのです。建顕は困ってしまいます。
  田村家の大名継続・永続化に対して仙台藩の重臣たちが拒否反応を起こす中、それをうまく収拾してくれたのが仙台藩主の伊達綱(つなむら)。綱村建顕はいとこにあたり、以前から親しい間柄でした。その綱村が伊達の家臣団をまとめ、幕府の了承を取り付けたので岩沼三万石は相続されることになりました。これに心から感謝した建顕は、伊達家への忠誠を誓うのでした。
ホッとする2代藩主田村たけあき←ホッとする2代藩主 田村建顕

* * * * * * * *

岩沼藩2代藩主 建顕はどんな人?
宗良が和歌を好んだこともあり、田村家には、学問はもちろん、文化や芸能にも力を入れて教養を高めようという教育方針がありました。建顕は、幼少時から漢学のほか、書、絵画、茶道、能、琴、和歌などをおさめています。中でも和歌には熱を入れて取り組み、水戸黄門として知られる徳川(水戸)光圀(みつくに)に肩を並べる大名歌人と評価されました。当代一流の文化人・教養人でした。

 

第11話 廃藩 ~田村氏、一関へ~

 無事家督を相続できた田村建(たけあき)は、ほっとしたのも束(つか)の間、さらなる試練に見舞われます。毎年の水害と大変な不作で参勤交代もできない年が続き、ついに財政は最悪の状態に。建顕が仙台藩主伊達綱(つなむら)に相談すると、綱村はこれまでの金銭援助をやめ、より土地の良い一関に領地替えすることを提案します。実はすでに岩沼藩の領地替えは検討されていたのです。というのも、岩沼藩初代藩主田村宗(むねよし)が生前、綱村へ領地替えの話を持ちかけていたからです。岩沼藩の財政状態が悪かったため(第9話参照)延び延びになっていたのですが、綱村はこのまま金銭援助を続けるよりは、一関までの移転費用を援助し、そこで財政を立て直してもらったほうがよい、と考えたようです。
  また、一関は1671年に伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ)が土佐へお預け処分になった後は仙台藩の直轄地になっていた(第8話参照)ため、他に人を移すことなく領地替えができることも都合がよかったのでしょう。
  建顕は、大名田村氏永続のため、そして、仙台藩にこれ以上迷惑をかけないようにするため、綱村の提案に同意。1681年に一関への領地替えが行われました。こうして、岩沼藩は約20年の歴史に幕を下ろしたのです。
  このように、一連の大名相続と領地替えが綱村の配慮によるものだったため、一関藩主田村氏が仙台藩主に従属する関係が確立。田村氏は、幕府からは大名としての扱いを受けましたが、仙台藩主に対しては、臣下の礼を尽くすことになったのでした。
  宗良を苦しめた一関の前藩主伊達兵部が去って10年。宗良の子、建顕田村氏一関藩を開藩し、兵部が整備途中だった城下町を完成させた…。歴史の巡り合わせの妙を感じませんか。
一関へ向かう田村たけあき←一関へ向かう田村建顕
 

第12話(最終回) おさらい

  今回は簡単に振り返ります。

 田村氏は、もともと福島県三春の戦国大名。弱小大名だったため伊達家に近づこうと、(めごひめ)を政宗に嫁がせます。しかし、後に豊臣秀吉により取り潰しに…。実家が無くなったことを悲しんだ愛姫は、孫の(むねよし)に田村家再興を遺言し、これにより宗良田村家を継ぎました。
 その後、酒と女にだらしがなかった仙台藩の三代藩主伊達綱宗(つなむね)が強制隠居となり、まだ2歳の千代(かめちよ。後の伊達綱村(つなむら))が藩主に。ここから、一連の「伊達騒動」が始まります。宗良は幼い藩主の後見人として伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ)とともに大名に昇格し、それぞれ岩沼藩・一関藩を開藩しました。
  後見人政治は、仙台藩筆頭奉行からのけん制や年長の兵部による側近重用などにより、宗良の思い通りには進みませんでした。兵部の横暴な振る舞いは、仙台藩を二分する権力闘争へと発展。ついには幕府が裁定に入り、進退窮まった原田甲斐(宗輔。かいむねすけ。兵部一派)が刃傷事件を起こします。その責任を問われ、兵部の一関藩は廃藩、宗良は1年間の閉門処分となりました。
  さて、田村家には文化や芸能に力を入れて教養を高めようという教育方針がありました。宗良の死後、高い教養を備えた息子(たけあき)が跡を継ぎますが、藩の財政状況の悪化は止められず、その解消のため、かつて兵部のいた一関へ領地替えが行われます。
  こうして、岩沼藩は約20年で終わりを告げたのですが、その間、岩沼では田村家家臣団が藩主のために城下町を整備します。奥州街道と並行に走る「桜小路」や足軽町である「北の町」「南の町」が作られ、また、職人が住む「片町」なども置かれました。現在の岩沼中心部の町割りは、この頃にほぼ出来上がったと言えるでしょう。
田村氏の大名復活を果たした田村むねよし←田村氏の大名復活を果たした田村宗良

 

【特別編】 第1話 田村氏一関藩(前編) ~理想の藩主~

 岩沼藩の廃藩後、移転先の一関での田村氏の活躍を3話にわたって紹介します。

 一関藩初代藩主となった田村建顕(たけあき)は、幕府の中で、小藩の外様大名としては異例の出世を遂げます。1691年には、江戸城奥詰(※1 おくづめ)となって譜代大名(※2)と同じ扱いを受け、翌年には奏者番(※3 そうしゃばん)にまでなりました。この背景には、譜代大名を抑えるために外様小大名などを登用する、将軍徳川綱吉(つなよし)の政策もありましたが、建顕が高い教養を備えていたことも理由とされ、その高い教養の陰には、武家社会には珍しい公家社会との親密な交流があったとも言われています。奏者番に任命されるのは名誉なことでしたが、礼儀作法が厳しいあまりに半月や2カ月で免職される者も多い中、建顕は亡くなるまでの10数年間にわたりこの重職を務めました。在職中、「忠臣蔵」で知られる浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)を江戸の屋敷に預かり、幕府の命による切腹をさせてもいます。(東京都港区新橋四丁目の一関藩上屋敷跡には、「浅野内匠頭終焉の地」の石碑が立っています。)
 さて、藩内の政治に目を向けてみると、建顕は平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に始まる田村家の系図を整備。また、武門の家柄でありながらも、藩士の教育に意を注いでいたこともわかっています。1688年に建顕が家来に向けて書いた長文の手紙が残っており、これは学問に熱心でない家臣団に対して、学問の必要性を熱く説いたものでした。1690年、将軍綱吉が江戸に「湯島の聖堂(日本の学校教育発祥の地)」を建てた翌年には、一関藩内にも聖堂を建てています。家臣の教養(儒学)を高めることで、小さな藩ながらきちんとした藩経営を行おうと「学問立藩」を目指したのでした。こうした独自の政治により、建顕は、 “理想の藩主”として後世まで語り継がれています。

※1 奥詰:隔日に登城し、将軍の求めに答えて意見を述べる役職。
※2 譜代大名:関ヶ原の戦いの前から徳川氏の家臣であった大名。幕府の要職を独占した。⇔外様大名は、主に関ヶ原の戦いの後に徳川氏に従った大名。
※3 奏者番:大目付、目付とともに三役と称された幕府の要職。儀式での大切な役割を担い、幕府から諸大名に派遣する使者の役目などもした。賢く、特別に才知が優れている人物でなくては務まらないとされた役職。

いちのせきしょだいはんしゅ たむらたけあき←一関初代藩主 田村建顕

 

【特別編】 第2話 田村氏一関藩(中編) ~過ぎたるもの~

 今日まで語り継がれている“一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵(たけべせいあん)”…これは、一関藩をうまく表した言い回しです。なんとこれにも岩沼から一関に移った初代藩主田村建顕(たけあき)が関わっています。城下に時刻を伝える“時の太鼓”。1686年、建顕が幕府の内諾を得てとりつけたもので、領内の人々は城下町のシンボルとして誇りにしました。
 もう一方の “建部清庵”は医師で、その医術が評判に。それを耳にした建顕によって1697年に召し出されました。以後、五代にわたり代々清庵を襲名し、藩医として診療や飢饉に見舞われた人々の救済にあたり、尊敬を集めます。また「清庵塾」を開いて医師を養成しました。特に二代目清庵(由正。よしまさ)は,『解体新書(※1 かいたいしんしょ)』の出版で知られる杉田玄白(すぎたげんぱく)と親密な交流があり、息子を杉田の養子にし、塾生の大槻玄沢(おおつきげんたく)杉田のもとに遊学させています。
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 大槻玄沢杉田玄白前野良沢(まえのりょうたく)に師事、蘭学を学びます。長崎に行ってオランダ語を学んだ玄沢は、杉田の没後、江戸蘭学の第一人者として、蘭学の入門書や『解体新書』の改訂版など多くの著作を残し、蘭学の発展に大きく貢献しました。
 大槻玄沢の子には、漢学者で仙台藩校「養賢堂(ようけんどう)」学頭を務めた大槻磐渓(ばんけい)が、孫には国語学者で日本初の国語辞典『言海(げんかい)』や『伊達騒動実録』を著した大槻文彦(ふみひこ)がいます。日本の近代化に貢献したこの三人は「大槻三賢人」と称されています。一族には大槻磐渓の他にも、親子で「養賢堂」の学頭を務める者が現れるなど、大槻家は優秀な学者を多く輩出しました。
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 建顕は、学問立藩(第1話)や清庵の招聘などにより、一関に素晴らしい人材が多数出現する土台を作ったのでした。

※解体新書:杉田玄白、前野良沢らが携わった日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書。

いちのせきえきまえのおおつきさんけんじんぞう ときのたいこ たけべせいあん

 

【特別編】 第3話 田村氏一関藩(後編) ~学問立藩と廃藩~

 田村氏は一関でも厳しい財政状況に悩まされます。冷害や不作、大きな飢饉に度々見舞われた上、幕府への公務負担(工事など)も加わり藩財政が窮迫。家臣団は給与カットで生活が苦しく、田村建顕(たけあき)没後、半世紀以上経つと、藩政をめぐる権力争いが激しくなります。百姓一揆も起こり、大変な時期が続きました。その後、若くして第7代藩主となった田村邦顕(くにあき)は、初代藩主建顕の「学問立藩」の精神を受け継いで人材の育成と登用を行い、藩政を立て直そうとします。今で言う図書館を作り、学問や武術などに努力する者には自ら面談して成果を聞きました。
 邦顕によって藩士に登用された人に、元百姓で和算家(※1 わさんか)の千葉胤秀(たねひで)がいます。千葉が活躍し、藩主自ら和算を学んで推奨したことで、一関では殿様から百姓の子どもまでが和算に熱中しました。神社・仏閣に奉納された “算額(数学絵馬)”は、現在残っている数では一関市が日本一。当時の盛り上がりがうかがえます。論理的で合理的な思考を要する和算は、役人層の人材養成効果もありました。
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 さて、その後は…。1868年の戊辰戦争で、一関藩は仙台藩に従って奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)(後に奥羽越列藩同盟(※2)に拡大)に加盟。明治新政府との戦争に加わります。この同盟の盟約書の原案を作ったのが大槻磐渓(ばんけい)(※3 第2話参照)でした。しかし、仙台藩とともに一関藩は戦争に敗れ、石高を減らされます。そして、1871年(明治4年)の廃藩置県により11代190年間続いた「田村氏一関藩」は廃藩となりました。
 時は流れて2005年、合併で誕生した新一関市。その行政理念の一つに「教育立市」が掲げられ、藩政時代からの良き伝統が今に受け継がれています。

※1 和算:鎖国下で発達した日本独自の数学。
※2 奥羽越列藩同盟:東北・北越の諸藩が結んだ反新政府同盟。
※3 大槻磐渓:幕府の存続を認めつつ開国し、諸外国と国交を結ぶという思想を持っていた。新政府からは奥羽越列藩同盟の思想的な中心とみられ、敗戦後、戦犯として逮捕された。

わさんか ちばたねひで←和算家 千葉胤秀



~『岩沼藩ののものがたり』もお読みください~

担当・問/市民経済部産業振興課商工観光係(電話0223-23-0573)
参考文献:岩沼市史、仙台市史、伊達騒動実録(大槻文彦著)、
シリーズ藩物語一関藩(現代書館、大島晃一著)


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