図表でわかる 岩沼藩三万石
更新日:2023年5月29日
江戸時代 岩沼にも大名がいた! ~まちの基礎づくりにかかわる~
今年(平成23年)は、岩沼藩が開藩してから350年の節目の年。そこで、岩沼藩の概要を紹介します。
岩沼藩って、いつ頃?
今から350年前…といっても、ピンとこないかもしれません。岩沼藩の前後の時期を世界や日本の主な出来事と合わせて年表にしてみました(下表参照)。江戸時代の前半にあたりますが、イギリスでは市民革命が起こり、中国では明が滅亡して清が統一したころです。なんとなくイメージが沸きませんか。
岩沼藩はどのくらい続いたの?お殿様は?
約20年間続きました。岩沼藩の前は、古内氏が初代、2代と24年間にわたり治めていましたが、政宗の孫、田村宗良(むねよし)が幕府の命で仙台藩から3万石(※)を分与され、岩沼で大名になりました(右系図参照)。宗良は、伊達騒動に巻き込まれ、1671年に起こった寛文事件(原田甲斐(かい)の刃傷事件)により、幕府から閉門処分を受けるなど苦労したようです。宗良死後、息子の宗永(後の建顕(たけあき))が藩主となりますが、1681年に一関に領地替えになり岩沼藩は廃藩になりました。翌年、古内氏が再び岩沼の領主として戻り、明治維新まで岩沼を治めることになります。
なお、江戸時代の大名は一万石以上の領主。中でも、石高順に大名の数を比較れば、三万石は大きい方と言われています。
※ 石:1石は、成人一人が1年間に食べる米の消費量とおおむね等しいとされる。
どうして大名になれたの?
宗良が政宗の正室である愛姫(めごひめ)の遺言を受けて田村姓を継いでいたこと、仙台藩4代藩主綱村(つなむら)が幼少であったため、後見人が必要だったことなどがあげられます。後見人として藩主の親族の中から宗良(岩沼藩三万石)と叔父の伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ。一関藩三万石)が選ばれ、大名になりました。
岩沼藩はどのあたり?
現在の岩沼市(東部を除く)に、北は名取市の南部、西は村田町、柴田町のほとんどの部分を合わせた地域で、仙台藩の中に島のようにありました。
(下図の右下参照)
お城はどこに?
今の岩沼駅周辺にあったと考えられています。岩沼要害や岩沼館(だて)とも呼ばれ、今の役所のような機能も果たしていたようです。
「岩沼藩」が教えてくれることは?
岩沼に紛れも無く大名が存在して、まちの基礎づくりにかかわったということです。
今後の展開について
市では、まちの歴史を市内外に紹介しながら、まちへの愛着や誇りの醸成のきっかけとしていただくとともに、後世に伝えていきたいと考えています。また、 このような歴史を貴重な地域資源として、観光分野等での活用を検討するとともに、歴史的なつながりを活かした交流の可能性も探っていきます。
※以上の内容は、現時点までの調査、分析によりわかっている内容をもとに構成したものです。
担当・問/市民経済部産業振興課商工観光係(電話0223-23-0573)
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