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岩沼のはじまり

更新日:20191125

 

第1話 岩沼のルーツ(前編) ~武隈の里~

岩沼のまちの起こりには阿武隈川が深く関わっています。まずは、岩沼で最も古い時代をテーマにした伝説からご紹介します。

「山の神」と「川の神」

ある日、南から北上してきた二柱の山の神と川の神が深山(※1 しんざん)の手前で出会いました。山の神が、「ここまで山をつくってきたのだから、もっと北へ延ばしたい」と言うと、川の神は、「私はこの辺で川を海へ流したい」と言いました。お互い譲らず、そのままでは山と川がぶつかるため、深山を十回早く回れた方の意見に従うことに。山の神と川の神は一斉に回り始めました。
ところが、山の神が7周したところで、深山に咲いていたツツジ(※2)に気を取られ、その根につまづいて転んでしまいます。その結果、川の神が勝ち、阿武隈川は東に大きく反れて太平洋に注ぐようになりました。
     ◆  ◆  ◆  ◆  ◆
古くから開けた岩沼は、かつて「武隈(たけくま)の里」と呼ばれました。「武隈」は、平安時代の頃に古文書で「阿武隈」と書かれ、後に「阿」の文字が取れたものとされています。「武隈」と呼ばれた頃をテーマにしたものに次の伝説があります。

「八声の橋」

小倉百人一首で知られる参議小野篁(※3 おののたかむら)は、陸奥守に任ぜられたとき、京都の伏見稲荷で奥州鎮護を祈りました。すると伏見稲荷の神様が白狐の姿で現れたので、箱に納めてお連れすることにしました。が842年に国府多賀城に赴任する途中、一行が南長谷の小さな(※4)橋にさしかかったとき、白狐が八回鳴きました。が「どうしたことか」と箱を開けると、中にいた白狐が飛び出し、近くの森の中へ姿を消しました。そこで、はこの森に社をつくり、地名から「武隈明神」と名付けました。その後、能因法師が神社の境内に建てた「竹駒寺」が影響したのか、「タケマ」が「タケマ」へと変わり、竹駒神社になったそうです。
やこえのはしでのおののたかむら←八声の橋と小野篁

※1 深山:現在は千貫山と呼ばれている。岩沼市の西側を南北に走る丘陵の南端に位置する標高191mの山。

※2 ツツジ:昭和53年に岩沼市花に制定された。

※3 小野篁:遣唐副使となったが大使と争い、病気と偽って乗船しなかったため隠岐国に流された。後にゆるされ参議となる。毎晩、冥界に通い、閻魔の傍らで裁判を手伝っていたといわれ、当時の人々に恐れられた。京都市東山区の六道珍皇寺には、篁が地獄と行き来する時に使ったとされる井戸がある。

※4 小さな橋:後に「八声(やこえ)の橋」と呼ばれた。現在は、水田になり残っていないが、旧国道沿いに、道標や石碑がある。

 

第2話 岩沼のルーツ(後編) ~岩沼~

今から2000万年以上前、人類の誕生よりはるか昔に、陸上や浅い海で、火山活動が盛んになり、岩沼の西部には小高い地域ができました。それから長い年月をかけて、火山岩や溶岩が雨や風、川によって削り取られ、その上に火山灰が降り積もるなどして岩石の多い平野や丘陵地帯がつくられました。
縄文時代には、気候が温暖になり、大陸を覆っていた氷河が溶けて海へ流れ込んだため、海面が上昇します。海岸線が陸地に入り込み、約7500年前には、西部丘陵地帯の近くまで海が来ていました。その後、逆に気温が下がりはじめると、海岸線が東に後退していきます。その間、波の作用で土砂が溜まって周りより1m程高くなった浜堤(ひんてい)と呼ばれる南北に走る堤防がいくつかできました。その最も西の浜堤付近には今の東北本線が通っています。浜堤の周りは低地だったため、やや高地となるこの浜堤には、早くから人が(※1)住みはじめました。

ややたかいところにひとがすみはじめた←やや高い所に人が住み始めた

平野が広がると、阿武隈川は蛇行しながら海の方へと伸びていきます。この川は何度も氾濫し、流路を変えたので、亘理町逢隈や仙台空港の方へも流れたことがありました。旧奥州街道の岩沼小学校付近は、阿武隈川が流れていたときにできた自然堤防の上です。これらの浜堤自然堤防以外の凹部(おうぶ。低湿地)には、水が溜まってできた沼がたくさんありました。このように、岩沼はもともと岩石と沼が多い地域だったのでした。
「岩沼」という地名が文献で初めて確認されているのは、16世紀半ば頃です。当時の領主は、伊達氏傘下の泉田氏で、鵜ケ崎城(※2 うがさきじょう)に本丸を築いたり、お城周辺のまちづくりを行っています。城は(※3)沼に臨み、城郭が多くの岩に囲まれていたことから「岩沼」と呼ばれたといわれています。

※1 人が~:後世には、竹駒神社もつくられ、岩沼の中心市街地となった。

※2 鵜ケ崎城:城の名前になった“鵜ケ崎”という地名は、形が鵜の首に似ていたがあったからとされる。また、城の周りには天然の堀として10個の沼があり、その中には、底が岩質でできた「岩沼」という沼もあったそうである。

※3 城は~:岩沼の地名の由来には他にも説あり。

 

第3話 金蛇さん(前編) ~大尊田碑とビッキ石~

岩沼には、多くの人から信仰を集めている神社として、竹駒神社の他に、金蛇水神社があります。仙台三越の傍らに分霊社があることでも知られていますが、この社にまつわる伝説をご紹介します。
989年(平安時代中期)、京都の三条に住む名匠小鍛治宗近(こかじむねちか)は、一条天皇から儀式用の刀をつくるように命じられました。宗近は刀を鍛えるための名水を探そうと旅に出ます。諸国をめぐるなか、三色吉村(※1)で水神宮のほとりを流れる清水を発見しました。しかし、そこにはたくさんのカエルが出没していたので、水が濁されることを恐れた宗近は、刀をつくる前に、鉄で雌雄一対の蛇をつくり水神宮に納めます。すると、カエルは逃げて一匹も姿が見えなくなりました。宗近は無事、刀を完成させて帰京します。それからというもの、この社では奉納された鉄の蛇を御神体とし、社名も金蛇水神社になったということです。
この話に関わるスポットが2カ所あります。1つ目は、明治時代に建立された「大尊田碑(たいそんだひ)」と名付けられた石碑です。県道仙台岩沼線から金蛇水神社に入る交差点の南東150mほどの田んぼの中にあります。この碑の文は鈴木雨香(※2)によって書かれましたが、そこには、金蛇水神社の由来とともに、宗近が刀の材料になる金属を溶かす炉を置いた場所がここであると記されています。

たいそんだひ←大尊田碑びっきいし←ビッキ石

2つ目が「ビッキ石」です。カエルが姿を消した翌朝、 宗近は、田んぼの畦道(あぜみち)で大きなガマガエルが石になっているのを見つけたといわれています。地域の古老達に「ビッキ石」と呼ばれたその石は、同神社の道標(※3)の土台石に使われ、かつては、前出の交差点のところに設置されていました。しかし、昭和50年代の道路拡幅で撤去され、現在は、ハナトピア岩沼の敷地内(※4)にひっそりと置かれています。

※1 三色吉村:現在の岩沼市三色吉

※2 鈴木雨香:岩沼藩の後のものがたり(第9話)参照

※3 道標:道案内をするための標識(ここでは石柱)

※4 敷地内:総合管理棟の南側、道路沿い

 

第4話 金蛇さん(後編)

~ただいま原稿作成を休止しています~

 

第5話 母なる阿武隈川(前編)

~ただいま原稿作成を休止しています~

 

第6話 母なる阿武隈川(後編)

~ただいま原稿作成を休止しています~

 

第7話 亀塚古墳と三平講

~ただいま原稿作成を休止しています~

 

第8話 慈覚大師と岩蔵寺

~ただいま原稿作成を休止しています~

 

第9話 政宗とのかかわり

近年、ゲームのキャラクターとしても人気の伊達政宗。岩沼との関わりはどんなものがあるのでしょうか。政宗に関する言い伝えをいくつかご紹介します。

値千貫の松(あたいせんがんのまつ)

西部の丘陵地帯にある標高191メートルの山の頂から峰伝いに、かつて数千株の松が一列に並んで生い茂っていました。1600年頃に政宗が仙台城を築城する際、この松を切って用材にしようとした時のこと。ある漁師が「この松は古くから沖に出た舟子の目標となっている。伐採すると舟子が迷う」と、銭千貫文を差し出して伐採を免れました。以来この松は「値千貫の松」、一帯の山は千貫山と呼ばれるように。千貫松は、無線や灯台の無い時代、命綱のように大切にされていたのです。

慶長の大津波と千貫松

1611年(慶長16年)に発生した大津波は阿武隈川(※1)を遡上して氾濫し、千貫松まで届いたとか。政宗が駿府城(現・静岡市)を訪れた際、徳川家康に話したとして、伊達徳川両家の記録に残されています。遠く離れた地で岩沼のことが話題にのぼったのです。

政宗とはらこ飯

岩沼の木曳堀(こびきぼり。現在の貞山堀(ていざんぼり))工事を視察に来た政宗。近くの漁師が献上した「はらこ飯」をとても気に入り、おいしいと皆に話したことで「はらこ飯」が広く知られるようになったとか。

さて、以上は代表的な3つの逸話ですが、他にも色々あります。「中央通り」(奥州街道の一部)を整備したのは政宗ですし、岩沼古内氏初代重広。しゅぜんしげひろ)は、優れた馬術を買われて政宗に召し出されました。また、政宗の指示で秀吉に従わず、奥州仕置(※2 おうしゅうしおき)でお家取り潰しとなった田村氏は、後に岩沼藩で大名として復活を果たします。(“岩沼藩三万石ものがたり”もご覧ください)

※1 当時、阿武隈川の川筋は現在よりも北にあった。

※2 1590年に行われた豊臣秀吉による東北地方に対する領土仕置きのこと。これにより、秀吉の天下統一が完成する。

まさむねとせんがんまつ←政宗と千貫松

 

 

第10話 政宗と貞山堀(前編)

伊達政宗との関わりで忘れてはならないものに「貞山堀(貞山運河)」があります。岩沼から塩釜まで続く長い運河ですが、その中で政宗の命により最初に開削されたのが「木曳堀(こ(き)びきぼり)」です。仙台の城下町をつくる木材などの物資を運ぶ水上の交通手段として、阿武隈川河口から名取川河口(閖上)まで、北に掘り進められました。
この木曳堀の傍の松並木が、堀の東側に偏って植えられているのをご存知ですか?景観に特徴が生まれ、美しさを引き立てていますが、そもそもなぜ片側だけなのでしょうか。それは、堀の西側を人が歩き、木材を載せた舟を引っ張るため。“木を曳く堀”から「木曳堀」と名付けられたそうです。
木曳堀に始まって、明治時代に塩釜湾まで全通したこの運河は、開削に着手した政宗の諡(おくりな)をとって「貞山堀」と名付けられました。
さて、1887年(明治20年)の鉄道開通によって人や物の移動、輸送手段が変わっていき、運河は徐々に必要とされなくなります。それでも後年、政宗を知るために貞山堀を訪れた作家の司馬遼太郎は、堀が美しいままに保たれていることに感動し畏敬をもった、と著書(※1)につづりました。

こびきぼり←木曳堀と松並木


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貞山堀の開削を担ったのは、政宗に登用された川村孫兵衛(重吉。まごべえしげよし)だと言われています。
孫兵衛は玉浦の早股に最初の領地を与えられ、多くの土木事業を成し遂げた人です。他にも北上川の治水、石巻港の改修や新田開発などを行い、領内の産業発展に大きく貢献しました。1611年(慶長16年)の大津波の後、被災した岩沼の沿岸等で製塩(※2)を行い、復興事業として成功させたのも孫兵衛で、相野釜や長谷釜、蒲崎(釜の先)などの地名は、塩を作る釜に由来すると考えられています。

※1 著書:「街道をゆく26」嵯峨散歩仙台・石巻

※2 「震災復興祈念講演会」(平成23年9月25日、於:岩沼市民会館)蝦名裕一講師配付資料より

 

第11話 政宗と貞山堀(後編)

今回は、川村孫兵衛(まごべえ)について詳しくご紹介します。江戸時代の代表的な土木技術者の一人である孫兵衛(重吉。しげよしは、長州(現・山口県)出身で、はじめは毛利氏に仕えていました。関ヶ原の合戦以降、浪人になっていた時に政宗から見いだされ、「500石で家臣にならないか」と声を掛けられます。重吉は「田の代わりに荒れ地をいただきたい」と希望し、手に入れた湿地帯を開墾して1千石の美田に変えてみせました。それが早股の地です。
重吉は、木曳堀(こ(き)びきぼり。貞山堀の一部)の掘削や北上川の治水工事などによって、多くの新田開発を可能にしたと言われています。仙台藩62万石が実際には100万石を超えると言われた背景には、孫兵衛の活躍もあったのでしょう。

かわむらまごべえのしんでんかいはつ←川村孫兵衛の新田開発

1648年に孫兵衛(重吉)が亡くなり、重吉の娘婿の孫兵衛(元吉。もとよしが事業を受け継ぎます。元吉(※)は、岩沼沿岸に松の植林を行い、津波や高潮への防潮林として整備。成長した木々は製塩の薪としても使われました。孫兵衛は親子で慶長の大津波からの復興事業を推進したのでした(第7話参照)。

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木曳堀と岩沼藩

仙台の城下町を建設する木材などを運ぶために開削された木曳堀。しかし、木材は当初、城下に近い広瀬川や名取川の流域から調達されたため、木曳堀はあまり使われませんでした。その後、時は岩沼藩の頃。江戸で大火が続き、仙台藩の江戸屋敷や田村宗良(岩沼藩主)、伊達兵部宗勝・一関藩主)の江戸屋敷も焼けてしまいました。当時江戸家老であった原田甲斐宗輔)は、屋敷を建て直すための木材を江戸に送るように仙台藩に要請します。この頃には広瀬川・名取川流域のものは使い果たされていたため、白石川流域で調達され江戸に送られました。これ以降、仙台藩でも木材が必要になった時は白石川流域のものが使われるようになり、運ぶ際には、木曳堀が利用されるようになったのです。

※ 孫兵衛(元吉)は、早俣(股)村や下ノ郷村など5ケ村を治めたが、岩沼藩開藩の時(1661年)に早俣村の一部が岩沼藩領に組み込まれたため、代替地をもらっている。

 

第12話 古内重広の大躍進(前編) ~一生~

岩沼の領主としてまず名前があがるのは、ご存じ古内(ふるうち)です。その礎を築き、諡(おくりな)から「仁巌(じんがん)さん」とも呼ばれる岩沼古内氏初代の重広(しげひろ)とはどんな人なのでしょうか。
重広(※1)の父は、政宗の叔父にあたり、伊達氏の一員でしたが、政宗が仙台を治める前に仙台一円を治めていた国分(こくぶん)へ後継ぎとして入ります。しかし、重広の父政宗から謀反の疑いをかけられたため常陸(ひたち。今の茨城県)へ行方をくらまします。7歳だった重広は、破れつづらに入れられて宮城郡根白石(今の仙台市泉区)の山中へ逃れました。そして、国分氏に仕えていた古内氏にかくまわれ、後に古内氏の養子となります。 1608年、重広20歳の時のこと。180㎝を超える長身と美しい容貌、そして優れた馬術が、鷹狩りに出ていた政宗の目に留まって微禄(28石相当)で馬乗りとして召し出され、その後、政宗の子忠宗(ただむね)に側近として付けられます。1615年には、豊臣家が滅亡することとなった大坂夏の陣の道明寺口の戦いで、政宗のもと参戦し、敵の首級をあげる戦功を立てました。
忠宗にとても信頼され、1636年に忠宗が仙台藩2代藩主となると、岩沼館(※いわぬまたて)を賜り、奉行職(他藩での家老にあたる)を命ぜられます。当時の石高は2,500石。重広は、岩沼では参勤交代時に忠宗を岩沼館でもてなし、盛況な馬市の管理・統制、新田開発を行うなどしています。また、栗原郡の原野の開墾に成功して、領地は約1万5000石に。これは、家臣としてはトップクラスだったのです。
重広は、1657年に奉行職を退き隠居しますが、翌年7月12日、忠宗の死を受けて70歳で殉死。先見の明があり、生前、伊達騒動を予見していたと言われています。古内家では命日である毎月12日、酒を飲まず甘酒を好んだ重広を偲び、霊前に甘酒を供えたそうです。

ふるうちしげひろ←古内重広

※1 重広の父は、政宗の叔父:よって、重広は政宗と従兄弟の関係になる。
※2 岩沼館:後の岩沼藩時代には岩沼城とされる。

 

第13話 古内重広の大躍進(中編) ~才能~

政宗の子、忠宗(ただむね)の側近となった古内(重広。しゅぜんしげひろ)。忠宗から格別な信頼を得たため、家臣の中には妬(ねた)む者も。彼らは重広を陥(おとしい)れるために、罪を政宗に訴え、政宗はすぐに重広を問いただしますが、重広は明快に弁明。それを聞いた政宗重広の無実を断言し「お前がこれほどまでに知恵と能力のある男だとは」と、感心します。この出来事は、重広を陥れるどころか、その聡明さを際立たせる結果となりました。
重広は、自分を高める努力も怠りませんでした。内藤以貫(ないとういかん)(※1)から孔子の教えや歴史を習い、また、雲居禅師(うんごぜんじ) (※2)とも親しくして教えを受けていました。重広が「仁岩(じんがん)さん」と呼ばれているのは、この雲居禅師が付けた法号(ほうごう)によるものです。この高名な2人を先生として、重広は儒教や仏教を学び、道徳をわきまえた優れた人格を形成したのです。
また、重広は鋭い洞察力も持ち合わせていました。死んだ忠宗の跡を追って切腹するにあたり、子どもたちに「気に掛かることが2つある。それは、後継ぎの綱宗様がお酒を好むこと。そして伊達兵部(宗勝。ひょうぶむねかつ)様に才能があること。この2つが伊達家の禍(わざわい)の種となりかねない」と話し、子が「兵部様に才能があるのは、伊達家にとって幸せなことでは」と尋ねると、重広は「才能には2種類ある。正直ならばよいが悪賢いのが問題なのだ」と答えました。伊達騒動(※3)が起こったのはその数年後。重広の危惧したことが現実となり、人は皆その先見の明に驚いたそうです。
重広が馬乗りから筆頭奉行まで上りつめる大出世を遂げたのはなぜだったのでしょうか。それは、伊達家の血を引き、立派な容姿であったからだけでなく、日々の努力により才能を磨き、高い知性と深い識見を備えていたからでもあったのです。

だてそうどうをよけんしていたふるうちしげひろ←伊達騒動を予見していた古内重広 

※1 内藤以貫:仙台藩の儒学者で、中国にも名の知られた書道家でもあった。

※2 雲居禅師:瑞巌寺(松島町)中興の祖で天皇から生前に禅師、死後は国師の称号を贈られた高僧。諸国を行脚し、開山した寺院は全国に173カ寺と言われる。

※3 伊達騒動:江戸時代の3代御家騒動の1つに数えられる。仙台藩の存続が危ぶまれたほどのもめ事だった。「岩沼藩三万石ものがたり」参照。

 

第14話 古内重広の大躍進(後編) ~活躍と人柄~

古内重広に関する言い伝えをいくつかご紹介します。

大井川を馬で渡る

1634年、3代将軍徳川家光が京都に行く際、伊達政宗忠宗(ただむね)父子もお供しました。途中、雨で増水した大井川に多くの諸侯が足止めされると、渡し場は人であふれる状況に。すると重広は「私が試しに渡りましょう」と弟(※1)らと川に入り、深さを確かめながら水をかき分け無事渡り切りました。固唾(かたず)を呑(の)んで見守っていた両岸の人々は、その度胸の良さと見事な手綱さばきに喝采を送り、重広らが示した所を通って、皆無事に川を渡ったそうです。

ふるうちしげひろ←古内重広

伊豆野堰を開削する

1642年、忠宗が伊豆野原(現在の栗原市築館周辺)に鷹狩に行った時のこと。忠宗重広に、この荒れ地を与えるから開拓するように、と命じました。重広は、土木技術者の二代目(※2)川村孫兵衛(元吉。まごべえもとよし)と共に、川よりも高い土地へ水を引くという難工事に挑み、3年がかりで伊豆野堰(※いずのぜき)を開削。これは重広最大の功績と言われ、この堰によって開拓が成功し、1万5千石の収穫が得られたとされています。

お供の忠告を受け入れる

忠宗が馬で遠乗りをした帰り道、お供が皆遅れ、忠宗重広が並んで馬を走らせていたことがありました。その時、重広が公然と「平和な世になって士気が下がり、今、一大事が起きても殿のために命をかけて戦う者は少ないでしょう」と言うと、忠宗も「そうかもなぁ」と答えました。それをいつの間にか馬の後を追いかけていた草履取りの笹原鹿之助が聞いて激怒します。重広の馬の鐙(※4 あぶみ)を抑えて「今の言葉は国老(※5)とはいえ、聞き捨てなりません」と詰め寄りました。重広はすぐに馬から降りて「私が間違っていた。許してくれ。」と深く謝罪。鹿之助は、身分の低い自分の忠告を重広が尊重して受け入れてくれたことに感動し、逆に無礼な振る舞いをしたことを重広に詫びたのでした。

偏屈男を心服させる

重広が若い頃、冷え込む晩に同僚の(※6)の新しい布団を無断で借りたことがありました。帰宿したは、それを見て激怒します。後に重広が奉行になり、それを祝うためにが古内邸を訪問した際、重広はかつての布団のお礼を伝えるとともに、道端で自分に礼をしてくれたことへの感謝を伝えました。するとは「重広にではなく、奉行の職に対して頭を下げたのだ」と言い、それからは道で会うと、わざと草履を高下駄に履き替えて礼をしたとか。また、身分の低い職に甘んじているを憐れんだ重広が、より高い職に着けるよう口利きをしますが、はそれを知るとすぐに仕事を辞めてしましまいました。重広の心の優しさがには伝わらなかったのでしょうか。…いいえ、そうではありません。重広が殉死したことを聞いたは心から悲しみ、重広の棺が自宅から寺(現在の仙台市泉区小角)へ運ばれる間、裸足で歩いて付き従ったのですから。

※1 弟:古内義実(原田甲斐刃傷事件の現場で唯一生き残った奉行古内義如の父)

※2 二代目川村孫兵衛(元吉):第8話参照。

※3 伊豆野堰:今でもこの地域に農業用水を送り続けている。

※4 鐙:馬具の一つで、鞍の両脇に吊るして乗り手が足を踏みかけるもの。

※5 国老:大名の領地にあって留守を預かる国家老。ここでは奉行。

※6 男:佐藤重信

 

担当・問/総務部政策企画課(電話0223-22-1111 内線525)
参考文献/岩沼市史、子ども岩沼市史、宮城縣史、仙台市史、仙台風俗史、封内名蹟誌、岩沼物語(正・続)、岩沼の民話、伊達家臣伝遺聞(近江静雄著)、「震災復興祈念講演会」(平成23年9月25日、於:岩沼市民会館)蝦名裕一講師配付資料、亘理町ホームページ


※このコラムは、民話や伝承など、昔から語り伝えられてきた話を題材に作成しているため、史実の裏付けがないものも含まれています。


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