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岩沼藩の後のものがたり

更新日:2019117

第1話 古内の帰岩(前編)

 田村氏が一関に移った後、岩沼の領主として戻ってきたのが、田村氏以前に岩沼を治めていた古内氏の分家筋にあたる古内造酒(重直。みきのすけしげなお)でした。「なぜ分家が?」と思うかもしれません。これについて歴史を少し遡って紹介します。
           ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
  岩沼古内氏初代古内主膳(重広。しゅぜんしげひろ)は、なかなか男子に恵まれず、娘の子(外孫)である重安を養子にして跡継ぎとしました。しかしその後、造酒祐重門(しげかど)(※1)という2人の男子が生まれます。
  造酒祐は1657年、重広が隠居する時に領地の一部をもらい、分家を興します。仙台藩4代藩主伊達綱村(つなむら)田村宗良が後見人として補佐した)の側近となると、一気に出世階段を駆け上がり、1682年には若年寄まで昇りつめ、岩沼を拝領することになったのでした。綱村は、中級家臣から人材を登用することで有力家臣を抑え、藩主に権力を集中させようとしたのです。造酒祐は、藩主の重用を後ろ盾に、役職以上に権力を持ち、藩政を左右しました。
           ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
  ところで、綱村はというと、とても気が短くてせっかちな性格でした。儒教にはまったかと思えば、仏教(※2)を薦められると今度はそちらに深く傾倒し、政治そっちのけで社寺の造営を行う始末。いろいろな面で極端に突っ走る傾向がありました。1697年に現在の太白区茂ヶ崎に大年寺(※3)を造ったのも綱村です。
  こういった寺社の建立は、苦しい藩財政をさらに悪化させます。また、家臣への厳しすぎる賞罰や金融政策の失敗など失政を重ねたことで、綱村独裁には有力家臣からの批判が噴出。批判の矛先は、綱村を補佐する造酒祐にも…。1686年には有力家臣達の進言により、造酒祐は岩沼を没収され、宮城郡根白石村に謹慎を命じられました。その後、後継ぎも早世したため、造酒祐の家は断絶してしまったのでした。

 ※1 重門:1667年に仙台藩内を騒がした席次問題で、原田甲斐に席次を下位にまわされたのが、重門と重定(重安の子。「岩沼藩三万石ものがたり」第6話参照)
 ※2 仏教:造酒祐が綱村に仏教をすすめたとされる。
 ※3 大年寺:この寺跡には、綱村以降の仙台藩の歴代藩主のほとんどの墓がある。

ひだりからふるうちみきのすけとだてつなむら←古内造酒祐(左)と伊達綱村

 ふるうちけけいず

第2話 古内の帰岩(後編)

  古内造酒祐(重直)が岩沼を没収された翌年の1687年、田村氏と入れ替わりで岩ヶ崎(栗原市栗駒)に移っていた古内氏本家の吉(げんきち)(後の重興(しげおき))が岩沼に戻ってきます(第1話「系図」参照)。
  源吉は、造酒の頃に仙台藩から預かった家臣を「桜小路」に継続して住まわせ、また、田村時代に職人屋敷が置かれた「片町」などに自分の家臣を住まわせます。「北の町」には、西多賀鈎取から移住してきた足軽が住みました(後述「復元された竹駒奴」参照)。
  松尾芭蕉が二木の松を見て感嘆の一句を読んだのもこの頃です(1689年)。芭蕉に同行した良(そら)は、日記(※1)に「武隈の松(二木の松)がある辺りは、古内源吉の侍屋敷だ」と記しています。また、『おくのほそ道』には「岩沼に宿る」という表現がありますが、この日記により、残念ながら泊まっていなかったこともわかります。芭蕉が「宿る」としたのは、仙台路を急ぐ中、宿場町岩沼に後ろ髪をひかれたからかもしれません。2人はその後、田村の治める一関で2泊、尾花沢(※2)ではなんと10泊もしています。
         *  *  *  *  * 
  ところで、造酒源吉が仕えた伊達村(つなむら)は、伊達騒動の反省から、藩主に権力を集中させようとします。1703年には仙台藩主直属の「矢ノ目足軽」を新設しますが、その直後、独裁政治に対して有力家臣らの反発に遇い、隠居に追い込まれました。

ひだりからふるうちげんきちとばしょう そら←(左から)古内源吉と芭蕉、曽良

復元された竹駒奴

 「北の町」への足軽移住(前述)から約220年後、この足軽の子孫は、竹駒神社から古内家を介してある協力要請を受けます。それが、藩政時代の大名行列を模した「竹駒奴(※3)」の復元でした。1913年(大正2年)に復元された「竹駒奴」は、今も神社の初午大祭時に披露されています。

※1 日記:『曽良旅日記』のこと。この中で、曽良は「古市源七」と記しているが、これは「古内源吉」の誤りとされる。
※2 尾花沢:岩沼市の友好都市
※3 竹駒奴:現在、市指定文化財になっている。

 

第3話 仙台藩5代藩主と竹駒神社

 伊達綱村の隠居を受けて仙台藩第5代藩主になったのが、綱村の従弟の伊達吉村(よしむら)です。吉村は、岩沼から一関に移った田村建顕(たけあき)の養子になることが決まっていましたが、幕府へ届け出る直前、綱村の跡を継ぐことになり、1703年、藩主になりました。
  吉村にとって最大の課題は、綱村時代に深刻化した財政難(第1話参照)を解消すること。吉村は、藩の内政改革に奮闘し、財政再建を果たします。このことで、後世「御中興の栄主(ごちゅうこうのえいしゅ)」と呼ばれました。テレビ時代劇『暴れん坊将軍』で知られる徳川吉宗は「吉村の政治と熱心な仕事ぶりは随一。諸大名は吉村を見習え」と褒めたたえています。
  吉村は学問や宗教の振興にも力を入れました。後の藩校「養賢堂(岩沼藩三万石ものがたり 特別編 第2話参照)」の前身となる学問所を創設。また、伊達家歴代の中で最も竹駒神社を手厚く保護し、1710年に立派な社殿(※1)を建てたほか、『竹駒神社縁起記(※2)』をまとめさせ、奉納するなどしています。
  さて、現在の竹駒神社には田村氏古内氏との関わりを示すものが残っています。例えば境内の忠魂碑。岩沼藩初代藩主田村宗良の墓石を削って作られたものと言われています。また、随身門の南側には古内重興(第2話参照)が寄進した石燈籠が2基あります。

うえからきゅうしゃでん しげおききしんのいしとうろう だてよしむら←(上から)旧社殿、伊達吉村、重興寄進の石灯篭

岩沼ではきつねの毛皮は着ない

 時は戊辰戦争。一関藩田村氏の家臣が岩沼まで陣を進め、竹駒神社の近くに滞在した晩のこと、人馬の足音で「夜襲だ!」と大騒ぎに。慌てた多くの兵士が岩沼城の堀に落ちて溺れてしまいました。翌朝の調べで、溺れた兵士はきつねの皮を着ていたことが判明。これを聞いた伊達の殿様(※3)は、「田村氏はかつて岩沼を治め、竹駒様の御使者がきつねであることを知っているはず。それなのにこの失態は何事か。即刻一関へ引き上げよ!」とお怒りになったそう。これを聞いた古内氏の当主が間に入り、一緒に殿様に詫びてようやく許されたのだとか。

※1 社殿:吉村が造営した社殿は、平成2年の放火で焼失。現在の社殿は平成5年に再建したもの。
※2 縁起:神社の起源や沿革、由来を記したもの。
※3 殿様:仙台藩第13代藩主伊達慶邦。

 

第4話 きつねが集まるまち(前編)

奥州のきつねの総元締め

 竹駒神社の神さまは、江戸時代には、竹駒明神とも呼ばれ、姉明神(館腰神社)や伯母明神(丸山神社(※1))などの親族がいます。ちなみに、丸山神社と竹駒神社の間には地下に互いに行き来できる通路があったといわれ、実際にその地下通路の上の通りでは、地面を強く蹴ると、下に空洞があるような音が響いたといわれています。
  江戸時代後期の初午まつりには、これら親族はもちろん、仙台領内の全てのきつねが竹駒神社に集まりました。初午前夜には、竹駒さんに向かうおびただしい数の狐火が目撃され、阿武隈川では、きつねを乗せた渡し船がひっきりなしに行き来しました。どのきつねも若者など人間の姿になって、木の葉のお金ではなくきちんと船賃を支払ったそうです。当時の初午の大にぎわいには、相当な数のきつねが交じっていたのでした。

にぎわうはつうままつり←にぎわう初午まつり

 岩沼に住むきつねたちは昼間を千貫山で過ごし、夜になると浜辺へ行って魚を食べていたそうですが、中には人にちょっかいを出す“たち”の悪いきつねもいて、夜遅くに外出する人は、化(ば)かされるのではと、とても怖かったそうです。というのも、化かされて深夜まで南長谷地区の畑の中を歩き回らされた揚げ句、結婚式の引き出物の魚を奪われた人や、林地区や藤曽根地区などで夫婦ぎつね(※2)に幻覚を見せられてお祭りの土産や浜で買った魚を取られたという人がたくさんいたからです。
  竹駒神社の分霊社は、東北の各地にあります。青森県や岩手県には、野ぎつねに化かされて困った場合、「竹駒さまに申し告げるぞ!」と大声で怒鳴ると難を逃れるという言い伝えがあります。竹駒さんへの信仰の広がりとともに、竹駒さんが奥州のきつねを取り締まっていたことがわかるエピソードです。

 ※1 丸山神社:二木2丁目地内、市民図書館の南西にある稲荷神社。
 ※2 夫婦ぎつね:矢の目と相の釜境の山林に住んでいた三平・お七と呼ばれた夫婦ぎつねのこと。江戸後期から明治初期にかけて、玉浦地区で広範囲に出没し、大勢の人々を化かしたという。 

 

第5話 きつねが集まるまち(中編) 

岩沼のきつねと白石の白鳥

 竹駒さんの御使者がきつねということもあり、江戸時代、岩沼ではきつねを敬い、道端できつねを見た人は、その場にしゃがんで拝んだそうです。一方、白鳥の宮が近くにある白石では、白鳥を尊び、田に羽が落ちていれば拾ってお宮におさめ、その肉を食べれば罰を受けるといわれていました。
  白石の片倉氏が岩沼館(たて)に年始のあいさつに来たときのこと。もてなし料理の吸い物に白鳥の肉が入っていたのを見付け、身を震わせて帰ってしまいました。後に、今度は古内氏が白石城を訪ねたときは、城の入り口にきつねの死体が置いてあったので、古内氏は怖くなって逃げ帰ったとさ。

きつねに怪力を授かった男

 昔、竹駒神社の社殿の後ろの「御山(おやま)」では、白狐を見ることができたそうです。
  1800年頃、市郎兵衛(※1)という小柄な男が仙台藩主の代わりに竹駒神社に参拝するため、前日に岩沼宿に泊まったときのこと。時間があったので「御山(おやま)」に入ってみると(※2)、白い狐が宝珠(※3 ほうじゅ)のような玉で遊んでいるのを見付けました。驚かして祟りでもあっては大変と隠れていましたが、うっかりくしゃみをしてしまったので、驚いた白狐は玉を忘れて逃げていきました。市郎兵衛がその玉を拾って宿に帰ると、夜更けに美しい少年が宿に訪ねて来ました。その少年は先ほどの白狐が化けたものでした。白狐が「玉が無いと神通力が無くなるので、玉を返してください。そのかわり何でも望みを叶えます」と言ったので、市郎兵衛は「非力で馬鹿にされるので力がほしい」と伝えて玉を返しました。次の日の参拝後、参道脇の石燈籠の笠石を持ってみると、軽々と持ち上げられました。それ以降、大力が評判になり、周りからも軽んじられることがなくなったそうです。

ほうじゅであそぶびゃっこ←宝珠で遊ぶ白狐

※1 市郎兵衛:原田甲斐(宗輔)の家来(けらい)、塩沢丹三郎の子孫とされる人。塩沢丹三郎は、仙台藩4代藩主亀千代(幼少の頃の伊達綱村)を毒殺するように甲斐から命じられたが、毒を盛った食事を自ら食べて死ぬことで幼い藩主と仙台藩を守ったといわれている。
※2 「御山」に入ってみると:戦前までは一般の人でも御山に入れたようである
※3 宝珠:頭部がとがった形で、願いを思いのままにかなえてくれる玉。宝珠が出てくる昔話絵本に「カンペぎつねのたからもの(岩沼市民図書館蔵書)」がある。

 

第6話 きつねが集まるまち(後編)

 岩沼に関わる「狐(きつね)の恩返し」の話を2つご紹介します。

その壱

 幕末のころ、矢ノ目足軽(※1 やのめあしがる)の若い組頭佐藤三郎が飯野坂(※2 いいのざか)の友人宅から帰宅途中、川内沢川(※3 かわうちさわがわ)の土手まで来ると、雨雲が急に薄れて辺りが明るくなりました。振り返ると、狼(おおかみ)がついてきていました。三郎が用心しながら歩き続けると、三郎を警戒して低く唸っている白狐(しろぎつね)と出くわしました。その後ろに二匹の子狐を確認した三郎は、「後から狼が来る。子どもたちを隠した方がよいぞ。」と白狐に声をかけ、狐たちを逃がしました。三郎は三と七のつく日(※4)に舞踊を習いに仙台城下へ通っていましたが、それからというもの、増田から矢ノ目への帰り道は、どんなに暗い夜でも、狐を助けた日のあの土手のように明るくなっていました。「狐の恩返しなのだろう」と三郎は周りの人に語ったそうです。

その弐
 昔、蔵本(※5 くらもと)の幸吉という百姓が、蔵王登山道にある鬼石原(おにいしはら)という所で、尾が二つに分かれた白狐が罠にかかっているのを見つけました。幸吉は、罠から外すと、狐の足が折れていたので、「東に行くと湯刈田(※6 とおがった)という温泉がある。そこで足を治すように」と伝えて逃がしました。
  翌春、幸吉は、三町歩もある田んぼの耕し手が集まらず困っていました。そこへ、百姓が5人の若者を連れてきました。百姓は、「私はあなたに助けられた狐です。湯で傷も治りました。お礼に田植えを手伝わせてください」と言いました。幸吉が頼むと、狐たちは10日かかる仕事を1日で終えてしまいました。その後も、時折、百姓が一人でやって来て、二本の尾を苗の間に伸ばし、たちまち田の雑草を取ってしまうのでした。そのおかげで、幸吉の田からはおいしいお米が倍もとれるようになり、領主の倉米として高く買い取られました。
 十年後、大長者となった幸吉はとても感謝し、狐たちが帰って行ったと聞いた竹駒神社に毎秋、米一俵分の餅と二百枚の油揚げをお供えしたそうです。
わなにかかったしろぎつね←罠にかかった白狐

※1 矢野目足軽:「第2話」参照。
※2 飯野坂:現・名取市飯野坂
※3 川内沢川:名取市の南部を流れ、岩沼の臨空工業団地を通り、貞山堀を経由して広浦で増田川に合流する一級河川。
※4 三と七:同時期に玉浦地区で広範囲に出没して人々に恐れられた三平・お七と呼ばれた夫婦ぎつねと何か関わりがあるのかもしれません。「第4話の欄外」参照。
※5 蔵本:現・白石市福岡蔵本
※6 湯刈田:遠刈田の古称

 

第7話 奥州街道 岩沼宿(前編) ~参勤交代とおもてなし~

 藩主が(※1)一年ごとに仙台と江戸を行き来した仙台藩の参勤交代。その行程は8日間程度でしたので、平均すると毎日40㎞以上も移動する計算に。仙台藩の大名行列は、多い時には総勢約3,500人もの大所帯だったため、徒歩や馬での移動には大変な苦労があったことでしょう。仙台藩主は、江戸への往路では八島本陣で昼食休憩し、仙台への帰路では岩沼要害に宿泊しました。八島本陣には、松前藩主盛岡藩主一関藩主(田村氏)などの諸大名も泊まっています。(後述「藻草巻(もくまき)」参照)
  また、岩沼には、宿屋が多く、竹駒神社の門前には茶屋がいくつもあったので、商人や一般の旅行者もたくさん訪れ、にぎわいました。著作『海国兵談』で知られ、仙台に住んでいた林子平が初めて江戸へ向かう際に友人と別れを惜しんだのは阿武隈川の河畔でした。当時、仙台から江戸に向かう旅人は、広瀬川北岸にある旅立明神(※2)の前で見送る人々と別れましたが、名残が尽きない人は、岩沼宿まで一緒に来て泊まり、一晩語り明かして、翌朝阿武隈川の手前で別れたのでした。
  ちなみに、秋保温泉岩沼屋は(※3)、創業者の祖先が岩沼で一泊した際に手厚くもてなされたことから、旅籠を開く時に「岩沼屋」と名付けたそうです。

藻草巻(もくまき)

 「藻草巻」とは、毎年行われたお城(岩沼要害)の「堀さらい」のこと。古内家は家臣総出で参加し、住民は名取郡全域から集められて3日間にわたって行われました。ここでは、作業の開始と終わりを知らせるために吹かれた法螺(ほら)貝にまつわる話を紹介します。
  戊辰戦争の5、6年程前のこと。盛岡藩主一行が参勤交代の帰りに八島本陣に泊まった翌朝、藻草巻の開始を告げる法螺貝が高らかに吹き鳴らされました。一行は、戦が始まったと思い、「馬をひけ!槍を持て!」と大騒ぎに。しばらくして、作業開始の合図と知って皆安心したということです。

さぎょうのかいしとおわりをつげるほらがい←作業の開始と終わりを告げる法螺貝

 ※1 藩主が~:岩沼藩の田村宗良が仙台藩主の後見人をしていた頃は、仙台藩では藩主が幼いため参勤交代は行われなかった。
 ※2 旅立明神:広瀬川に架かる広瀬橋の東側にある旅立稲荷神社。
  ※3 岩沼屋は~:「岩沼屋」女将の橘眞紀子さんの講演より(2008年2月23日開催の健幸大学オープンセミナー)

 

第8話 奥州街道 岩沼宿(後編) ~岩沼宿グルメ~

 参勤交代で岩沼に泊まる人々のお目当ては、なんと魚料理でした。「えっ、岩沼で魚料理?」と思う方もいることでしょう。しかし、岩沼は、奥州街道の江戸-仙台間で最も海に近い宿場町であり、閖上(現・名取市)や荒浜(現・亘理町)のほか、蒲崎にも港があったので、新鮮な魚を入手することができたのです。水揚げされた魚介類は、八島本陣の北側にあった五十集(※1いさば)問屋を通じて宿に届けられたと思われます。
  参勤交代の費用は藩の負担となるため、財政状況の厳しい仙台藩は幕末に副菜をなくすようにと通達します。しかし、岩沼宿では、泊まった家来たちが「魚物が出ない」と機嫌を悪くしないように、宿の負担で調達して出したとか。また、岩沼といえば魚料理というイメージは一般の旅人も持っていたようです。仙台のとある店の佐吉という奉公人は、角田方面へ旅をした帰りに岩沼で宿泊。その際、夕食に「岩沼名物の焼き鰈(かれい)が出た!」と大喜びしています。
  阿武隈川の鮭も有名でした。領主の古内氏は京都の公家(※2 くげ)に鮭を毎年献上していましたし、幕末のある国学者は「塩鮭の切り身が“夏”でも鮮魚のようでとてもうまい」とその味だけでなく、岩沼に優れた製法や貯蔵技術があったことにも注目しています。
  当時の名物には魚の他に、鴨、菱(※3 ひし)、どじょうがあります。特に江戸時代には、鴨がたくさん飛来したようで、現在の岩沼郵便局の北側には、鰌堀(どじょうぼり)と呼ばれる古内家の鴨池がありました。そこでとれる鴨は「とてもおいしい」と評判。仙台藩主にも献上されて煮物(鴨とねぎ、豆腐などを一緒に煮た料理。『煎鳥(いりどり)』と呼ばれた)などにして食されました。現在の市役所西側には、かつて桜池と呼ばれる、こちらもおいしい鴨が捕れる大きな池があり、鴨猟にまつわる伝説(後述「桜池伝説」参照)が今に伝わっています。

かも  いりどり←鴨と『煎鳥』

桜池伝説  

 鴨の名所とされるこの池の番をする男は、毎年殿様に鴨を献上していました。ある年、不猟に困って他所で捕った鴨を偽って献上したときのこと。男には綺麗な娘がいましたが、近づくのを許されないことを恨んだある若者が、殿様に偽りを密告します。すると、鴨の味に不満を持っていた殿様は怒り、男を牢屋(ろうや)に入れてしまったので、娘は深く悲しんだのでした。娘の「桜子」という名にちなんだからか、それとも、池の縁に桜の木があったからか、この池は桜池と呼ばれたのでした。

 ※1 五十集:江戸時代、水産品は「五十集物(いさばもの)」と呼ばれた。
 ※2 京都の公家:五摂家の一つ近衛家のこと。五摂家は、公家の家格でトップ。鎌倉中期以降、摂政・関白職を独占した。
  ※3 菱:池や沼に生えるヒシ科の一年生水草。果実は菱型で食用や薬用となる。桃の節句に供えられる菱餅は、果実を粉にしてついたもの。

 

第9話 庶民教育に貢献した「養拙堂」

 一関に移った田村建顕の「学問立藩」から約120年後、江戸時代後期の全国的な文運興隆の流れの中、岩沼にも私塾や寺子屋などがつくられます。
  文字の読めない足軽が日常生活にも不自由しているのを知り、教育の必要性を痛感した古内家の家老・伊東恭蔵(いとうきょうぞう)は、足軽の強制教育を思い立ち、1820年頃に仙台藩校「養賢堂」(ようけんどう)(第3話参照)を意識して「養拙堂」(ようせつどう)と名付けた家塾を開きます。養拙堂では百姓や町人も受け入れたことから、大手町にあった恭蔵の屋敷(現在の「ホテル原田」の場所)はたちまち一杯になり、女子は屋内、男子は屋外に莚(むしろ)を敷いて講義が行われるほどの盛況ぶりでした。
  養拙堂から出た学者に、古内家の家老になった只野吾(ただのきんご)吉田庵(よしだきくあん)がいます。欽吾は一度読んだ本は一字も誤りなく暗記してしまうほどの秀才で、若くして自宅の寺子屋「只野塾」で教授しました。名誉市民の只野文哉(※1 ぶんや)は、この欽吾の曾孫です。また、菊庵も多くの人に書道を教えましたが、その中には、またいとこにあたる岩沼出身の郷土史家鈴木雨香(※2 うこう)がいます。
  恭蔵没後は、子の伊東行蔵(庵。※3 ぎょうぞうとつあんが養拙堂を引き継ぎ、スパルタ式の教育を行います。それでも庭の莚では常に200人を超える子どもたちが学ぶほどで、まさに岩沼が誇る庶民教育の一つでした。養拙堂は、明治6年、岩沼小学校創立当時の仮校舎(※4)となります。
  ちなみに、「養拙堂」の伊東訥庵は、「養賢堂」学頭の大槻磐渓(おおつきばんけい)(第3話参照)としばしば激論を交わしていました。というのも、幕末、仙台藩は、佐幕(※5)、勤皇(※6)、仙台独立の三派に分かれて論争しており、訥庵は勤皇を、磐渓は佐幕を支持していたからです。最終的には磐渓の支持を受けた佐幕派が勝利。幕府を支持することになった仙台藩は戊辰戦争に突入し、敗戦を迎えることになるのでした。

※1只野文哉:国産で初めて電子顕微鏡の開発に成功した。亡くなる直前まで岩沼の小中学校で子どもたちに講演を行い、教えを受けた児童は延べ4万人にのぼる。
※2 鈴木雨香:「仙台叢書」「仙台風俗史」など著書多数。詩文・碑撰・書道等にも優れ、その撰書は市内各所で見られる。
※3 行蔵:「こうぞう」と呼ぶ説もある。
※4 仮校舎:岩沼小学校は、3カ所の家塾を仮校舎として発足した。
※5 佐幕:尊攘・倒幕に反対し、幕府を支持すること。
※6 勤皇:天皇に忠義を尽くすこと。

おおつきばんけいいとうとつあん←大槻磐渓(左)と伊東訥庵 

ようけんどうようせつどう←養賢堂(左)と養拙堂

 

第10話 豚先生の夢

 家老伊東行蔵(訥庵。とつあん)は、版籍奉還(明治2年)に際して財政難にあえいでいた古内家の建て直しに奮闘します。財政を一応安定させると、次は家塾「養拙堂」(第8話参照)のある自宅敷地内に豚舎を建てて、養豚事業に着手しました。これは、幕末に読んだアダム・スミスの『国富論(こくふろん)』を実践したもの。「日本は豚を飼育して肉食を普及し、健康な国民をつくらなければ。そして産業を振興させるのだ!」と、訥庵は壮大な夢を描いたのです。岩沼での豚飼育第一号となったこの事業には、養拙堂の学童たちも駆り出されました。子どもたちは重労働や臭いなどで大変な思いをしたようです。
  しかし、ときは明治の初め、肉食が一般庶民には浸透していなかった時代です。そんな中でもハムのような加工品を製造するほどの熱の入れようでしたが、採算がとれず失敗に終わります。多額の借金が残り、全財産を差し押さえられて、伊東家は没落してしまいました。
  時は流れ、文明開化により西洋文化が国内に広まってくると、食生活にも変化が現れます。後進の努力もあり、明治維新から30年ほど経つと、岩沼にも豚肉の消費が少しずつ広がってきたのです。1921年(大正10年)には町営の屠場(食肉処理場)も設置されて、新鮮な肉がすぐに入手できるように。多くの人が豚肉を食べられるようになりました。その後、岩沼にはとんかつ屋やホルモン屋が出来始め、次第に増加。ホルモン焼きは、近年では、B級グルメ「岩沼とんちゃん」として注目され、人気が出ています。「豚先生」こと訥庵の大きな夢は後年達成されたと言えるでしょう。

とんしゃ←豚舎

 

第11話 全国有数だった岩沼馬市

  かつて岩沼には馬市で大賑わいした時代がありました。岩沼の馬市は、竹駒神社の創建と同じ頃、国司小野篁(おののたかむら)が神社に賑わいをもたらすために始めたとされています。仙台藩内随一(※)と言われた岩沼の馬市は、「御日市(おひいち)」とも呼ばれ、幕府の馬買役人も来るほどでした。
  明治4年、岩沼は政府の軍馬購買地に指定され、馬市が盛んになります。明治天皇が、明治9年と14年の東北巡幸(じゅんこう)の際には岩沼の名馬をご覧になっています。日露戦争(明治37~38年)の後には、軍馬の需要が増えて馬市がますます盛んに。大正初期には、岩沼は軍馬三大購買地に名を連ねました。
  岩沼から宮内庁へ納められる馬も多く、昭和27年に現在の天皇陛下が皇太子になる儀式の際に馬車を引いた馬や、美智子様とのご成婚パレードを務めた馬も岩沼から買い上げられた馬でした。また、平成23年6月に岩沼を被災地訪問された皇太子殿下浩宮様が、幼少の頃乗馬を始めるときにお乗りになった馬も岩沼から納められた馬でした。
  賑わいを見せた馬市も、終戦で軍馬が無くなるとその姿を消します。その後は、馬検場で牛市が行われました。乳牛、肥育牛、役牛の増産を目指した転換政策は成功し、牛市も大きな収益を上げますが、それも20数年程の間。時代の流れもあり、昭和46年馬検場の所に「参集殿」が建てられたことで、岩沼の馬市・牛市の歴史は終わりを告げました。牛市は仙台市中田の家畜市場に移されます。
  岩沼の名を全国に知らしめた岩沼馬市。今は、馬事博物館とその前にある馬検場址碑が往時の面影を伝えています。

じんじゃのけいだいでおこなわれたいわぬまうまいち←神社の境内で行われた岩沼馬市

馬があふれた町 

 明治の中期には、岩沼では800頭を超える馬が市にかけられたこともありました。馬が横にズラリと並ぶ列が、赤鳥居から大手町を通って、二木、館下、栄町、北の町、桜小路、そして志引のお墓近くまで続きました。馬を売り買いする博労(ばくろう)が生きの良い掛声をかけて忙しそうに走り回る中、岩沼尋常高等小学校(今の岩沼小学校)の子どもたちは、馬の間を左右に縫うようにして学校に通ったそうです。町に馬があふれていた様子が目に浮かびます。市の西部の千貫山の稜線の松並木(千貫松)が「馬の鬣(たてがみ)」のように見えたと表現されたのもこのような町の状況からなのでしょう。

※仙台藩内随一:「岩沼藩三万石ものがたり」第9話参照

第12話 馬事博物館と政宗騎馬像

 岩沼の誇る大馬市を今に伝える竹駒神社の馬事博物館は、昭和14年に開館しましたが、これには博労(※1ばくろう)の渡邊豊蔵(とよぞう)が関わっています。豊蔵は若くして東北や関東一帯から博労が集まる岩沼馬市を取り仕切りました。日本でも指折りの博労として豊蔵が知られるのは当時、日露戦争後に軍馬の需要が増して岩沼馬市が大盛況であったためです。
  豊蔵は度量が大きく、親分肌の人で、地域で不遇な方を哀れんでは墓碑を建てたり、郷土力士の活躍を支援したりもしました。岩沼町長や竹駒神社の総代も務めています。
  馬事博物館は、豊蔵のつながりから1,100点を超える馬に関する貴重な収集品を神社が寄贈されたのを受けて建築されました。
  ところで、館内には、金色の政宗騎馬像(※2)が展示されていますが、なんとこれは仙台城址に立つ政宗騎馬像の原型試作品です。なぜここに?
  昭和8年、宮城県青年団から政宗三百回忌の記念事業として銅像制作を依頼された彫刻家小室(こむろとおる。現・柴田町出身)は、制作に当たり、馬について研究します。その際、豊蔵にも指導を求めた関わりから、博物館に原型試作品が奉納されたのでした。

きんいろのまさむねきばぞうわたなべとよぞう←金色の政宗騎馬像と渡邊豊蔵

サーカスと博労 

 かつて、柿岡曲馬団(かきおかきょくばだん)というサーカス団が初午祭りに来る直前、台湾興行中に失火して馬やライオンなどを焼失してしまった時のこと。困ったサーカス団は、豊蔵に馬6頭を用立ててくれと頼み込みます。豊蔵は初め断わりますが、必死で食い下がるので仕方なく了承しました。なんとか馬を貸してもらうと、急ごしらえの芸でしたが興行は大当たり。全て豊蔵のおかげと、毎年初午の興行前には必ず豊蔵宅へ挨拶に訪れたそうです。

 ※1 博労:牛馬の売買や仲介を業とする人。
 ※2 政宗騎馬像:仙台城址の像は2代目。初代は胸像のみが仙台市博物館の敷地内にある。

 

第13話 城から駅へ

 岩沼のお城の始まりは、国府多賀城へ向かう時の旅館「武隈館(※1 たけくまたて)」で、三十六歌仙の一人である重之(みなもとのしげゆき)が1000年頃に築いたと言われます。伝承によれば、1083年に源義家(※2 みなもとのよしいえ)が「鵜ヶ崎城」(うがさきじょう)と名付けました。東(あずま)街道・浜街道の交通の要衝に位置し、戦国時代は伊達家の家臣が拝領しました。
  近世の岩沼城は16世紀後半頃に建てられたと考えられます。「東の関ヶ原」といわれた1600年の慶長出羽合戦の時には、白石城(※3)攻撃に向かう前に政宗自身も2泊しています。その後「岩沼要害(岩沼館(※4 いわぬまたて))」と呼ばれましたが、田村氏岩沼藩の間は「岩沼城」とされました。
  「城」というと天守閣や石垣が思い浮かべられがちですが、岩沼城は自然の丘陵地を利用し、武家屋敷風の構造だったようです。また、岩沼藩の頃に建てられた大手門は2階建ての立派なもので、引き継いだ古内氏も大切に扱いました。
  しかし、そのお城が姿を消してしまう日が来ます。それは鉄道を敷くためでした。汽車が町の発展に役立つと考えた古内家第13代の古内広行は、町の中に駅をつくる(※5)ことを決め、城山を削って用地を提供したのです。これによって岩沼駅(※6)は、白石・大河原・仙台・塩竈(※7)の各駅とともに県内最初の駅となり、1887年(明治20年)に上野-仙台-塩竈間で東北本線(※8)が開通しました。その後も常磐線の開通や複線化等で城山は削られたため、現在は、岩沼駅西口ロータリーの南側にわずかに岩沼城の名残りが見られるだけとなっています。

 ※1 武隈館:場所はわかっていない。武隈は岩沼の古称。
 ※2 源義家:八幡太郎義家とも呼ばれる。後三年の役の後、義家に助けられた藤原清衡により奥州藤原氏平泉の繁栄が始まる。
 ※3 白石城:当時の白石城は、上杉景勝の領で、政宗は上杉軍を奥州に引き止めておくよう徳川家康に求められていた。
 ※4 岩沼館:1615年に出された一国一城令により、岩沼城は岩沼要害(岩沼館)と呼ばれるようになった。要害は、城に次ぐ拝領施設のこと。
 ※5 町の中に駅をつくる:角田・丸森地域では、汽車が出す煙が養蚕に影響するのではないかと心配した反対運動等があり、鉄道の敷設ができず、白石・大河原地域に路線変更を余儀なくされた。また、町から離れた不便な所に駅をつくらなければならなかった地域もあった。
 ※6 岩沼駅:当時は岩沼停車場と称した。
  ※7 塩竈駅:この駅は現在は無くなっている。

 ※8 東北本線:当時は東北鉄道で、後に東北本線と改称。

 

おおてもんときしゃ←岩沼城の大手門と汽車

 

第14話(最終回) 再生のまち

 歴史を振り返ると、岩沼は「再生のまち」と言うこともできそうです。古くから交通の要衝だった岩沼は、旅人の疲れを癒し、翌朝元気に再出発させる宿場町としても栄えたからです。岩沼が「再生のまち」となる下地は、ずっと昔にできていたのかもしれません。お城の始まりである“武隈館(たけくまたて)”は、多賀城に向かう人々の旅館(休憩所)として建てられています。江戸時代には、多くの旅人はもちろん、参勤交代をする仙台藩主や諸大名も岩沼要害や八島本陣などに泊まりました。奥州街道「岩沼宿」は、翌朝再生して旅立つ人々の姿を見送ってきたのです。
  岩沼では、他にも多くの人やものが再生しました。かの松尾芭蕉は、武隈の松(二木の松)が昔から植え継がれ再生されているところに感激しました。坂上田村麻呂の末裔とされる田村氏は、豊臣秀吉に滅ぼされた後、岩沼で大名として復活再生を果たしましたし、馬市は、岩沼藩の頃、大幅に日数を減らされ一時衰退しますが、後に全国に知られる大馬市へと再生しました。近年では、ムツゴロウさんが大学院生の頃、失意の中に岩沼を訪れ、人々の温かさなどに触れて「復活できた」、と著作(※)に記しています。また、市をあげて誘致した年金保養施設「グリーンピア岩沼」が破たんした後も、岩沼市では多くの市民の皆さんのご支持とご協力を得て再生させました。新しく生まれ変わった施設は、学習と健康づくりの拠点として活用されています。
  
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  私たちのまちは、東日本大震災で史上最悪の大惨事に見舞われました。とても悲しく辛い出来事でしたが、岩沼は必ず再生し、“愛と希望”に満ちた復興を果たします。

※著作:ムツゴロウの放浪記(畑正憲 著)

いわぬまじゅく←奥州街道「岩沼宿」

 

担当・問/総務部政策企画課(電話0223-22-1111 内線529)
参考文献/岩沼市史、子ども岩沼市史、宮城縣史、仙台市史、一関市史、仙台風俗史、シリーズ藩物語一関藩(現代書館、大島晃一著)、竹駒神社、岩沼物語(正・続)、ふるさとの心 岩沼物語補遺、岩沼の民話、いわぬま歴史散歩119、すいとく(平成21年7月号、9月号)、岩沼小学校創立百周年記念誌

※このコラムは、民話や伝承など、昔から語り伝えられてきた話を題材に作成しているため、史実の裏付けがないものも含まれています。 

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