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岩沼市

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【岩沼の歴史】原始(縄文時代から古墳時代まで)

更新日:20231214

縄文時代

縄文時代は約1万2,000年前から1万年ものあいだ続いた時代で、大きく草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に分けられます。「縄文海進」と呼ばれる温暖化現象が発生した時期であり、岩沼周辺の海面は現在より3mほど高かったと考えられています。このため、市内では縄文時代の遺跡が18か所見つかっていますが、これらのすべては西部地区の丘陵地に位置しています。たとえば、現在の海岸線から遠く離れた畑堤上貝塚(北長谷字畑堤上)からは、ヤマトシジミやハマグリ、アサリなどの貝が見つかっています。

縄文時代の風景(想像図)
岩沼上空から西をながめた縄文時代の風景(想像図)

畑堤上貝塚で見つかったヤマトシジミ
畑堤上貝塚で見つかったヤマトシジミ

市内で発見されている最も古い遺物は、鵜ヶ崎城跡(栄町一丁目ほか)の発掘調査で見つかった約6,500年前の縄文土器であり、時期としては縄文時代の早期にあたります。このころ、地球は温暖化のピークをむかえ海面がもっとも高くなり、海は山側まで大きく広がっていました。約6,000年前の縄文時代前期になると、温暖化のピークが過ぎて海面は低下をはじめます。また、これに川から運ばれた土砂が加わり、海岸は少しずつ東へと移動していきました。この過程で波打ち際に浜堤列(海の砂で形成された安定した土地)ができますが、この浜堤列に出入り口をふさがれた海は潟湖に変わり、さらに川の土砂が加わると潟湖も小さくなっていきました。

6,500年前頃の地形(推定図)
6,500年前頃の地形(推定図)

6000年前頃の地形(推定図)
6,000年前頃の地形(推定図)

畑堤上貝塚の縄文土器
畑堤上貝塚の縄文土器(6,000年前頃)


約4,000年前の縄文時代中期になっても、山畑南貝塚(小川字山畑南)などでは、まだ潟湖からヤマトシジミを採集していましたが、その後、岩沼周辺では貝塚は見られなくなります。潟湖もなくなり、平地はさらに東へと広がっていきました。約3,000年前以降の縄文時代晩期になると、海や潟湖ははるか東方に後退しました。この時期になると、下塩ノ入遺跡(志賀字下塩ノ入)のような山間部の河川沿いでも縄文の集落が営まれるようになりました。

4000年前頃の地形(推定図)
4,000年前頃の地形(推定図)

3000年前頃の地形(推定図)
3,000年前頃の地形(推定図)

山畑南貝塚のヤマトシジミ貝層
山畑南貝塚のヤマトシジミ貝層

 

弥生時代

長く続いた縄文時代の終わり頃、中国大陸や朝鮮半島から稲作文化が伝わり弥生時代がはじまりました。稲作は、狩りや採集、漁が中心であったこれまでの生活を、水田で米をつくるという土地に根ざした新しいスタイルに変えました。仙台平野にも約2,200年前にあたる紀元前2世紀頃には米づくりが伝わり、水田近くの台地や平地には集落が営まれました。

市内で見つかった弥生土器
市内で見つかった弥生土器

市内では、弥生時代の特徴である水田跡や集落跡は見つかっていませんが、かめ塚西遺跡(字亀塚)の存在から、生活の場が丘陵部だけではなく平野部にまで広がっていたことがわかります。また、北原遺跡(長岡字北原)などで見つかった石包丁や、杉の内遺跡(三色吉字杉の内)で見つかった弥生土器など、稲作をものがたる道具も発見されています。特に、杉の内遺跡の弥生土器は、こわれたところに種のような痕があり、顕微鏡で調べたところ、稲のモミ痕であることが確かめられました。土器づくりの際に偶然、粘土に混入したものとみられます。

モミ痕のついた弥生土器
モミ痕のついた弥生土器

市内で見つかった石包丁と大型直縁刃石器
市内で見つかった石包丁と大型直縁刃石

このほか、市内では弓矢の先端に付けたアメリカ式石鏃(せきぞく)と呼ばれる特殊な形をした石鏃が、北原遺跡や朝日古墳群(朝日二丁目)などから出土しています。また、扁平片刃石斧と呼ばれる木材を加工する際に使われた石の斧が、かめ塚西遺跡で発見されています。

市内で見つかった石斧
市内で見つかった石斧
 

古墳時代

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