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『おくのほそ道』と岩沼

竹駒神社

第1話 芭蕉の心の世界(前編)

ご存じ松尾芭蕉の『おくのほそ道』。本文が400字詰め原稿用紙に換算すると30枚程度と短い作品ですが、全文を読んだことのある方は意外と少ないのではないでしょうか。まずは概要を紹介します。
 1644年に伊賀(※1)で生まれた松尾芭蕉(ばしょう)は、俳諧を学び、後に “蕉風(しょうふう)”と呼ばれる芸術性の高い独自の俳諧を確立します。
 有名な「古池(ふるいけ)や蛙(かわず)飛(とび)こむ水の音」は、芭蕉が『おくのほそ道』の旅に出る3年前に詠んだ句ですが、この句で芭蕉は自分の句風に目覚めた(蕉風開眼)といわれます。この句がそれまでと違うのは、蛙(かえる)が水に飛び込む音だけをたよりに吟(ぎん)じているところです。つまり、蛙が飛び込むのを見ずに、その音を聞いて“心の世界”に現れた、現実には存在しない「古池」を詠んだのでした。芭蕉は“心の世界”を発展させることを目的の一つにして歌枕の宝庫である“みちのく”への旅を決意します。
  『おくのほそ道』の旅は、1689年春に江戸深川(※2)を舟で出発し、千住(※3)から陸路を北上。当時芭蕉は46歳、弟子で6歳年下の曾良(そら)を伴っての二人旅の最大の目的地は、松島、平泉と象潟(※4)でした。東北から北陸へと歌枕などをまわり、終着点の大垣までの5カ月間、2400㎞にわたる長旅でした。この紀行文は、伊勢神宮参拝のため大垣から舟で出発するところで終わります。
  注意が必要なのは、この作品が単なる旅の記録ではなく、実際の旅をもとに芭蕉の心の世界に生じた想像や虚構を織り交ぜた文学作品であることです。芭蕉は、優れた芸術作品にしようと、人名や道順、日付などを意図的に変えてもいます。
  この旅から5年後、芭蕉は別な旅の途中、『おくのほそ道』の発刊を待たずして大阪で亡くなるのでした(享年51歳)。

ばしょうがたどったみち→芭蕉がたどった道

※1 伊賀:現・三重県伊賀市 ※2 深川:現・江東区 ※3 千住:現・足立区 ※4 象潟:現・秋田県にかほ市 ※5 大垣:現・岐阜県大垣市

 

第2話  芭蕉の心の世界(後編)  

 曾良(そら)の随行日記によれば、芭蕉(ばしょう)一行は飯坂温泉、そして白石に泊まり、翌日(※1)奥州街道から岩沼に入りました。竹駒明神の前を通って、昼頃に「武隈(※2 たけくま)の松」を見ています。その後、名取郡笠島実方中将(※3 さねかたちゅうじょう)の墓へと行く道を通り過ぎてしまったため、諦(あきら)めて仙台へと向かいました。
  この旅路は、文学作品『おくのほそ道』では次のように描かれています。
  飯坂の貧しい農家に泊まった二人は、土間にむしろを敷いて寝かされました。夜は雨漏(あまも)りと蚤(のみ)や蚊(か)に悩まされ、翌日は睡眠不足でふらふらの状態で出発。白石を過ぎ、やっとのことで笠島まで来ましたが、雨で道が悪く疲れていたので実方の墓を遠くから眺めるだけにしました。
  続いて岩沼で「武隈の松」を訪れます。この松は枯れたり、伐採されたりしては、植え継がれるのを繰り返したので、旅人が必ず見られるとは限りませんでした。奥州を2回訪れた能因法師(※4 のういんほうし)は、前に見た松が二度目には無くなっていたと嘆いていますし、芭蕉が尊敬(※5)する西行法師(さいぎょうほうし)が訪れた時もありませんでした。しかし、芭蕉は幸運にも古歌に詠まれた姿を留めた見事な松を見ることができています。とても感激した芭蕉は、江戸を旅立つ前に、弟子が「武隈の松を見られるように」と餞別にくれた句に応えて「桜より松は二木(ふたき)を三月越シ(みつきごし)」と詠みました。この句は、「桜(※6)の咲いているころから三月経ってようやく二木の松を見ることができたことだよ」という意味です。念願を叶えた一行は旅を再開して仙台で宿をとりました。
  芭蕉は、『おくのほそ道』で岩沼と笠島を訪問した順序を逆にし、「辛い旅」とその後に味わった「感激の出会い」を対照的に描いたのでした。

ばしょうがそんけいするのういんやさいぎょうもおとずれたたけくまのまつ→芭蕉の尊敬する能因や西行も訪れた武隈の松

※1 翌日:旧暦1689年5月4日(新暦6月20日)
※2 武隈の松:二木の松
※3 実方中将:平安中期の歌人、藤原実方
※4 能因法師:宝窟山竹駒寺を創建したとされる人。能因、西行、実方は小倉百人一首に歌を採られている優れた歌人。
※5 尊敬する西行法師:芭蕉は西行の五百回忌の年に「おくのほそ道」の旅に出ている。
※6 解釈には諸説あり。

 

第3話  芭蕉を感激させた松(前編) ~姿を変えた武隈松~ 

 「武隈(たけくま)の松」は、10世紀前半に詠まれた藤原元善(ふじわらのもとよし)の歌(※1)に初めて登場します。元善は陸奥守(※2 むつのかみ)として多賀城に向かう際、「武隈の松」が枯れていたのを見つけて小松を植え継ぎました。後にもう一度赴任した時に、この「松」に再会できた感動を和歌に詠んでいます。ということは、元善が初めて赴任する前から「武隈の松」は人々に知られていたということに。しかし残念ながら、それ以前のことは分かっていません。
 元善が植えた松を2代目とすると、この後「松」は野火で焼けたり、枯れたり、橋の建材にするために切られたりして何度か姿を消したため、その都度、当時の陸奥守が植え継ぎました。ですが、芭蕉が見た5代目については、誰が植えたのか記録がありません。また、7代目となる現在の松は、幕末から明治初期の頃に岩沼の呉服商作間(さくままんきち)が植えました。
植え継がれる間には思わぬ変化が起こっています。現在は、一本の樹の根元近くから二股に分かれる「一株二股(ふたまた)」の松ですが、なんと元々(※3)は二本であり、「二株が並ぶ相生(あいおい)」の松であったようです。11世紀初めに成立した紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語(げんじものがたり)』にも「武隈の松」は登場しますが、源氏(ひかるげんじ)が歌に詠んだ「松」は二本であったともいわれています。

ひかるげんじとにほんだったたけくまのまつ←光源氏と2本だった「武隈の松」

 ところで、『おくのほそ道』には、『源氏物語』を下敷きにしていると思われるところがいくつもあります。芭蕉は「武隈の松」を見て「(※4)まず能因(のういん)法師を思い出した」と書いていますが、能因の次には、能因のように旅に生きた西行(さいぎょう)や『源氏物語』も思い出したのかもしれません。
 芭蕉が「昔(※4)の姿を失っていない」と書いたことも影響したのか、「武隈の松」は、5代目以降「一株二股」の松が植え継がれています。

※1 歌:951年に編さんが始まった『後撰和歌集』に掲載。この歌集は、平安時代に古今和歌集に次いで2番目となる勅撰和歌集。勅撰は、天皇や上皇の命により書物を編纂すること。
※2 陸奥守:国府のあった多賀城に派遣された、現在の東北地方東部を統括する長官のこと。江戸時代には、仙台藩主に与えられるのが慣例となった。
※3 元々は~:4代目以前の具体的な形は分かっていないが、古い歌を吟味すると二株並列の相生の松であると考えられる。(『二木松考』(佐々木喜一郎著))
※4 『おくのほそ道』本文の現代語訳より。

第4話 芭蕉を感激させた松(中編①) ~「二木松碑」~ 

 「二木の松(武隈の松)」の隣には、明治34年に建てられた「二木松碑」があります。この歌碑には、藤原元善(ふじわらのもとよし)の「宇恵(うえ)し登(と)き ち起里(ぎり)やしけ舞(む) 多計久満(たけくま)の 松(まつ)をふたたび あ飛見(ひみ)つ留嘉那(るかな)」と季通(たちばなのすえみち)の「堂希久万(たけくま)の 松八二木越(まつはふたきを) 美屋古人(みやこびと) い可ヾ(かが)と問八ゞ(とはば) み起(き)とこたへ舞(む)」の2首が刻まれています。「武隈の松」はたくさんの歌に詠まれているのに、「なぜこの歌が?」と思う方もいることでしょう。
  元善の歌は「武隈の松」が文献初登場(先月号参照)なので選ばれるのも分かりますが、1020年頃に詠まれた季通の歌はどうでしょう。現代語訳は「武隈の松はどうでしたかと都の人に聞かれたら、二木(ふたき)をみき(見た)と答えよう」で、「二」と「三」で遊んでおり、特に優れた歌ではないとされています。
  しかし、この歌以降、「武隈の松」と「みき」はセットで度々詠まれました。芭蕉も「桜より松は二木を三月越シ(みつきごし)」と詠み、「二」と「三」の数字遊びで「見つ木(三月)」として季通らの歌を踏まえています。季通の歌は、後の歌に影響を与えたとして選ばれたようです。
  万葉仮名(※1 まんようがな)で記されたこの2首は読みづらいかもしれません。でも、敬遠せずに歌が作られた平安時代を想像しながら繰り返し読んでみると、詠み手の思いを味わうことができるでしょう。

ふたきのまつひ←二木松碑

 橘季通と父
季通(たちばなのすえみち)は、父の橘則光(のりみつ)が陸奥守として赴任する際に同行して「武隈の松」を訪れています。文学が好きな方はお気付きでしょう。父の則光は、清少納言(せいしょうなごん)の最初の夫とされる人。『(※2)枕草子(まくらのそうし)』にも登場し、勝気な清少納言に振り回される、文学嫌いな気の弱い夫として描かれています。その一方、『(※3)今昔(こんじゃく)物語集』では、暴漢を見事撃退する武勇の人として描かれ、続いて季通が難を逃れた話も収録されています。 

※1 万葉仮名:漢字の表す意味とは関係なく、言葉の音を表すのに1音節に漢字1文字を当てたもの。万葉集に多く用いられ、後にここから平仮名やカタカナが生まれた。

※2 『枕草子』:清少納言による平安中期の随筆で、「方丈記」「徒然草」と並んで日本三大随筆と呼ばれる。『源氏物語』とともに王朝女流文学を代表する傑作ともいわれる。

※3 『今昔物語集』:平安後期に成立した説話集。日本・インド・中国の説話を収録。全ての話が、「今は昔」という書き出しで始まる。

 

第5話 芭蕉を感激させた松(中編②)~みちのくのシンボル~

 10世紀には、すでに都の歌人にも「武隈の松」は歌枕として知られていました。当時の東北地方は、京の都から遠く離れており、辺境の地とみられていました。都人(みやこびと)はなかなか訪れることができないこの地への想像を膨らませ、多くの名所や地名を歌に詠み、それらが歌枕となっていきました。みちのくが歌枕の宝庫といわれる理由です。
  都人にとって、「武隈の松」はみちのくの代表的なイメージの一つでした。陸奥守として赴任する人がいれば、周りの人は別れを惜しみ、「武隈の松」を詠んだ歌を餞別に贈りました。現在の名取市愛島に墓がある藤原実方(さねかた)も陸奥守に任じられた際、親しい友人から「武隈の松」を詠んだ歌を贈られています。

ゆうじんとのわかれをおしむふじわらさねかた←友人との別れを惜しむ藤原実方
 
それを知っていたのか、松尾芭蕉がみちのくへ旅立つときに、(きょはく)という弟子は餞別に「武隈の松」を詠んだ「武隈の松見せ申せ遅桜(おそざくら)」という句を贈っています。

藤原実方と源重之
  藤原実方は、当代きっての貴公子といわれ、美しい容姿と優れた和歌の才能を持ち、舞の名手でもありました。『源氏物語』光源氏のモデルの一人とされるほか、清少納言と恋愛関係にあり、『枕草子』にも登場しています。
  その実方は、宮中で藤原行成(※1 ゆきなり)と口論となった際、短気を起こして行成の冠をとって投げ捨ててしまいます。それを見ていた一条(いちじょう)天皇は怒って「歌枕を見てまいれ」と実方を陸奥守に任じたといわれています。実方は笠島道祖神(※2)の前を、馬から降りずに通り過ぎようとして、神の怒りを買い、落馬して、その傷がもとで亡くなりました。
 
後年、悲しい最期を遂(と)げた実方に思いを寄せた西行(さいぎょう)や芭蕉正岡子規(まさおかしき)が墓を訪ねるなどしています。
  また、実方に随行してみちのくに来た人に源重之(※3 しげゆき)がいます。重之は「武隈の松」を訪れて歌に詠んだり、伝承では、多賀城へ向かう途中の旅館として「武隈の館(※4 たけくまのたて)」を築城したといわれています。

※1 藤原行成:平安中期を代表する書道の大家。実方の左遷とは逆に、この後大きく出世した。藤原道長とは長年に渡る盟友であり、道長と同日に亡くなった。

※2 笠島道祖神:名取市愛島笠島にある神社。佐倍乃(さえの)神社とも呼ばれている。

※3 源重之:実方とともに小倉百人一首に歌を採られている優れた歌人。

※4 武隈の館:岩沼にあった中世城郭。後に鵜ケ崎城と呼ばれた。  

 

第6話 芭蕉を感激させた松(後編) ~武隈の松と陸奥守~

 「武隈の松」は無くても、西行(さいぎょう)法師など多くの歌人がその跡を訪ね、歌に詠みました。藤原清輔(※1 きよすけ)著作の『奥儀抄(おうぎしょう)』にも「なくともよむべし」とあります。
  西行よりも数十年前(1075年頃)に武隈(岩沼の古称)を訪れた人に陸奥守(むつのかみ)の(たちばなのためなか)がいます。為仲は次のように書き残しています。
――新しく陸奥守が赴任するとき、国府の役人は、多賀城から「武隈の松」の前まで来て出迎えた。和歌のたしなみのある陸奥守は「松」をお題に歌を詠むことが慣例になっていた。新しい陸奥守は、たとえ「松」がなくても、地面に立てた松の枝を見て歌を詠むことが求められた。――
  為仲が訪れた時も「松」は無かったので、立てた枝を見て詠んでいます。慣例とはいえ、和歌の教養を役人に試されていると感じた陸奥守もいたことでしょう。「松」が陸奥守によって植え継がれることが多かったのは、このようなことが影響していたのかもしれません。

たてたまつをみてうたをよむ むつのかみ←立てた松を見て歌を詠む陸奥守
  ところで、芭蕉が「松」のところで歌を詠んだのは、自分をかつての陸奥守になぞらえたためだとも言われています。芭蕉の一行は名所や歌枕の地を訪れるときに、その土地に残る昔の人の思いに触れようとしていることが他にもあります。白河の関には、貴族が晴れ着に着替えて関を通ったという故事があります。それを踏まえた芭蕉の一行は、白河の関に来た際に良(そら)が「卯(う)の花をかざしに関の晴着(はれぎ)かな(晴着が無いので、道端に咲いていた卯の花をかざして関を越えよう)」と詠んでいます。

源義家と鵜ケ崎城(うがさきじょう)
 橘為仲の後任として、陸奥守に任ぜられたのが源義家(※2 よしいえ)です。義家は、当時の岩沼にあったお城(※3)に陣を構え、そのお城を鵜ケ崎城と名付けたとされています。

※1 藤原清輔:平安後期の貴族で、平安時代の歌学の大成者とされる。小倉百人一首にも歌が採られ、彼の著作により「武隈の松」の伝承は大きく広まった。
※2 源義家:平安後期の武将で、後に幕府を開いた源頼朝や足利尊氏の祖先。奥州の戦争である「後三年の役(ごさんねんのえき)」を義家が平定し、その後、現在の東北は奥州藤原氏が支配するようになった。
※3 お城:中世の「武隈の館(たて)」のこと。正確な場所はわかっていない。

 

第7話(最終回) こぼれ話

『おくのほそ道』と岩沼にゆかりのあるエピソードを紹介します。

竹駒明神伝説

 歌道の名人とたたえられていた能因法師は、「武隈の松」の近くで、竹馬に乗った童(わらし)と出会いました。能因が道を尋ねると、童は歌枕「武隈の松」を紹介し、近くの森の中に姿を消しました。能因は「あの子どもは竹駒明神の化身(けしん)だ。私が歌道を怠っているのを戒められたのだ。」と感謝し、それから数年の間、竹駒神社のそばに庵(いおり)を建てて明神に仕えました。その庵が竹駒寺のはじまりとされています。
  この言い伝えにより、岩沼では、竹馬は明神の乗り物と考えられました。「竹馬に乗るとけがをする」と、子どもたちは乗ることを許されなかったそうです。
のういんほうしとたけうまにのったわらし←能因法師と竹馬に乗った童

松島と石巻にて

 松島は、芭蕉がこの旅で最も訪れたかった場所でした。芭蕉は、松島で雲居禅師(※1 うんごぜんじ)の座禅堂を訪ねました。『おくのほそ道』では瑞巌寺について、雲居禅師が再興したことで、素晴らしい大寺院になったと記しています。この雲居禅師こそ、岩沼古内氏初代の重広が親しく教えを受けただけでなく、「仁岩(※2 じんがん)」という法号まで付けてもらった高僧でした。
  芭蕉が続いて訪ねたのが石巻です。芭蕉は、港町としての繁栄ぶりにとても驚いたようです。江戸時代の初めには小さな漁村であったとされる石巻がこれほどまでに繁栄できたのは、川村孫兵衛(重吉)の功績とされています。孫兵衛は、政宗から最初の領地を岩沼にもらい、木曳堀を整備した人物として、よく知られています。石巻の日和山(ひよりやま)には、芭蕉曾良の像とともに、孫兵衛の像も建てられています。

※1 雲居禅師:「岩沼入門」→岩沼のはじまり→第10話参照。
※2 仁岩:後世の人は、古内重広を「ずんがさん(仁岩さん)」と呼んだ。
※3 川村孫兵衛:同第7話参照。

担当・問/政策企画課(℡0223-22-1111 内線525)

参考文献:新版おくのほそ道(角川文庫)、「奥の細道」をよむ(ちくま新書)、奥の細道が面白いほどわかる本(中経出版)、文法全解おくのほそ道(旺文社)、「おくのほそ道」解釈事典(東京堂出版)、芭蕉「おくのほそ道」の旅(角川oneテーマ21)、曾良本『おくのほそ道』の研究(笠間書院)、岩沼物語正・続、二木松考(以上、佐々木喜一郎著)、歌枕意識の変貌とその定着過程-歌枕「たけくまの松」をめぐって(金沢規雄)、歌枕と芭蕉-『おくのほそ道』「武隈の松」「末の松山」の検討から-(安田徳子)、岩沼市史、子ども岩沼市史

※このコラムは、民話や伝承など、昔から語り伝えられてきた話を題材に作成している部分があり、史実の裏付けがないものも含まれています。

『おくのほそ道』と岩沼 イメージマーク

おくのほそみちといわぬま ろごまーく

■イメージマークについて

 芭蕉と曾良、そして、二人が訪れた武隈の松(二木の松)をもとに図案化しました。

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