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岩沼藩ののものがたり

第1話 田村氏一関藩(前編) 〜理想の藩主〜

 岩沼藩の廃藩後、移転先の一関での田村氏の活躍を3話にわたって紹介します。

 一関藩初代藩主となった田村建顕(たけあき)は、幕府の中で、小藩の外様大名としては異例の出世を遂げます。1691年には、江戸城奥詰(※1 おくづめ)となって譜代大名(※2)と同じ扱いを受け、翌年には奏者番(※3 そうしゃばん)にまでなりました。この背景には、譜代大名を抑えるために外様小大名などを登用する、将軍徳川綱吉(つなよし)の政策もありましたが、建顕が高い教養を備えていたことも理由とされ、その高い教養の陰には、武家社会には珍しい公家社会との親密な交流があったとも言われています。奏者番に任命されるのは名誉なことでしたが、礼儀作法が厳しいあまりに半月や2カ月で免職される者も多い中、建顕は亡くなるまでの10数年間にわたりこの重職を務めました。在職中、「忠臣蔵」で知られる浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)を江戸の屋敷に預かり、幕府の命による切腹をさせてもいます。(東京都港区新橋四丁目の一関藩上屋敷跡には、「浅野内匠頭終焉の地」の石碑が立っています。)
  さて、藩内の政治に目を向けてみると、建顕は平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に始まる田村家の系図を整備。また、武門の家柄でありながらも、藩士の教育に意を注いでいたこともわかっています。1688年に建顕が家来に向けて書いた長文の手紙が残っており、これは学問に熱心でない家臣団に対して、学問の必要性を熱く説いたものでした。1690年、将軍綱吉が江戸に「湯島の聖堂(日本の学校教育発祥の地)」を建てた翌年には、一関藩内にも聖堂を建てています。家臣の教養(儒学)を高めることで、小さな藩ながらきちんとした藩経営を行おうと「学問立藩」を目指したのでした。こうした独自の政治により、建顕は、“理想の藩主”として後世まで語り継がれています。

※1 奥詰:隔日に登城し、将軍の求めに答えて意見を述べる役職。
※2 譜代大名:関ヶ原の戦いの前から徳川氏の家臣であった大名。幕府の要職を独占した。⇔外様大名は、主に関ヶ原の戦いの後に徳川氏に従った大名。
※3 奏者番:大目付、目付とともに三役と称された幕府の要職。儀式での大切な役割を担い、幕府から諸大名に派遣する使者の役目などもした。賢く、特別に才知が優れている人物でなくては務まらないとされた役職。

いちのせきしょだいはんしゅ たむらたけあき←一関初代藩主 田村建顕

 

第2話 田村氏一関藩(中編) 〜過ぎたるもの〜

  今日まで語り継がれている“一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵(たけべせいあん)”…これは、一関藩をうまく表した言い回しです。なんとこれにも岩沼から一関に移った初代藩主田村建顕(たけあき)が関わっています。城下に時刻を伝える“時の太鼓”。1686年、建顕が幕府の内諾を得てとりつけたもので、領内の人々は城下町のシンボルとして誇りにしました。
  もう一方の“建部清庵”は医師で、その医術が評判に。それを耳にした建顕によって1697年に召し出されました。以後、五代にわたり代々清庵を襲名し、藩医として診療や飢饉に見舞われた人々の救済にあたり、尊敬を集めます。また「清庵塾」を開いて医師を養成しました。特に二代目清庵(由正。よしまさ)は,『解体新書(※1 かいたいしんしょ)』の出版で知られる杉田白(すぎたげんぱく)と親密な交流があり、息子を杉田の養子にし、塾生の大槻玄沢(おおつきげんたく)杉田のもとに遊学させています。
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  大槻玄沢杉田玄白前野良沢(まえのりょうたく)に師事、蘭学を学びます。長崎に行ってオランダ語を学んだ玄沢は、杉田の没後、江戸蘭学の第一人者として、蘭学の入門書や『解体新書』の改訂版など多くの著作を残し、蘭学の発展に大きく貢献しました。
  大槻玄沢の子には、漢学者で仙台藩校「養賢堂(ようけんどう)」学頭を務めた大槻磐渓(ばんけい)が、孫には国語学者で日本初の国語辞典『言海(げんかい)』や『伊達騒動実録』を著した大槻文彦(ふみひこ)がいます。日本の近代化に貢献したこの三人は「大槻三賢人」と称されています。一族には大槻磐渓の他にも、親子で「養賢堂」の学頭を務める者が現れるなど、大槻家は優秀な学者を多く輩出しました。
               * * * * * * *
  建顕は、学問立藩(第1話)や清庵の招聘などにより、一関に素晴らしい人材が多数出現する土台を作ったのでした。

 ※解体新書:杉田玄白、前野良沢らが携わった日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書。

 

いちのせきえきまえのおおつきさんけんじんぞう ときのたいこ たけべせいあん

 

第3話 田村氏一関藩(後編) 〜学問立藩と廃藩〜

  田村氏は一関でも厳しい財政状況に悩まされます。冷害や不作、大きな飢饉に度々見舞われた上、幕府への公務負担(工事など)も加わり藩財政が窮迫。家臣団は給与カットで生活が苦しく、田村建顕(たけあき)没後、半世紀以上経つと、藩政をめぐる権力争いが激しくなります。百姓一揆も起こり、大変な時期が続きました。その後、若くして第7代藩主となった田村邦顕(くにあき)は、初代藩主建顕の「学問立藩」の精神を受け継いで人材の育成と登用を行い、藩政を立て直そうとします。今で言う図書館を作り、学問や武術などに努力する者には自ら面談して成果を聞きました。
  邦顕によって藩士に登用された人に、元百姓で和算家(※1 わさんか)の千葉秀(たねひで)がいます。千葉が活躍し、藩主自ら和算を学んで推奨したことで、一関では殿様から百姓の子どもまでが和算に熱中しました。神社・仏閣に奉納された“算額(数学絵馬)”は、現在残っている数では一関市が日本一。当時の盛り上がりがうかがえます。論理的で合理的な思考を要する和算は、役人層の人材養成効果もありました。
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  さて、その後は…。1868年の戊辰戦争で、一関藩は仙台藩に従って奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)(後に奥羽越列藩同盟(※2)に拡大)に加盟。明治新政府との戦争に加わります。この同盟の盟約書の原案を作ったのが大槻磐渓(ばんけい)(※3 第2話参照)でした。しかし、仙台藩とともに一関藩は戦争に敗れ、石高を減らされます。そして、1871年(明治4年)の廃藩置県により11代190年間続いた「田村氏一関藩」は廃藩となりました。
  時は流れて2005年、合併で誕生した新一関市。その行政理念の一つに「教育立市」が掲げられ、藩政時代からの良き伝統が今に受け継がれています。

 ※1 和算:鎖国下で発達した日本独自の数学。
 ※2 奥羽越列藩同盟:東北・北越の諸藩が結んだ反新政府同盟。
 ※3 大槻磐渓:幕府の存続を認めつつ開国し、諸外国と国交を結ぶという思想を持っていた。新政府からは奥羽越列藩同盟の思想的な中心とみられ、敗戦後、戦犯として逮捕された。

 

わさんか ちばたねひで←和算家 千葉胤秀

 3話にわたり紹介してきた「一関移転後の田村氏」のお話は今回でおしまいです。第4話からは、「田村氏移転後の岩沼」を紹介します。

第4話 古内の帰岩(前編)

 田村氏が一関に移った後、岩沼の領主として戻ってきたのが、田村氏以前に岩沼を治めていた古内氏の分家筋にあたる古内造酒(重直。みきのすけしげなお)でした。「なぜ分家が?」と思うかもしれません。これについて歴史を少し遡って紹介します。
           ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
  岩沼古内氏初代古内主膳(重広。しゅぜんしげひろ)は、なかなか男子に恵まれず、娘の子(外孫)である重安を養子にして跡継ぎとしました。しかしその後、造酒祐重門(しげかど)(※1)という2人の男子が生まれます。
  造酒祐は1657年、重広が隠居する時に領地の一部をもらい、分家を興します。仙台藩4代藩主伊達綱村(つなむら)田村宗良が後見人として補佐した)の側近となると、一気に出世階段を駆け上がり、1682年には若年寄まで昇りつめ、岩沼を拝領することになったのでした。綱村は、中級家臣から人材を登用することで有力家臣を抑え、藩主に権力を集中させようとしたのです。造酒祐は、藩主の重用を後ろ盾に、役職以上に権力を持ち、藩政を左右しました。
           ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
  ところで、綱村はというと、とても気が短くてせっかちな性格でした。儒教にはまったかと思えば、仏教(※2)を薦められると今度はそちらに深く傾倒し、政治そっちのけで社寺の造営を行う始末。いろいろな面で極端に突っ走る傾向がありました。1697年に現在の太白区茂ヶ崎に大年寺(※3)を造ったのも綱村です。
  こういった寺社の建立は、苦しい藩財政をさらに悪化させます。また、家臣への厳しすぎる賞罰や金融政策の失敗など失政を重ねたことで、綱村独裁には有力家臣からの批判が噴出。批判の矛先は、綱村を補佐する造酒祐にも…。1686年には有力家臣達の進言により、造酒祐は岩沼を没収され、宮城郡根白石村に謹慎を命じられました。その後、後継ぎも早世したため、造酒祐の家は断絶してしまったのでした。

 ※1 重門:1667年に仙台藩内を騒がした席次問題で、原田甲斐に席次を下位にまわされたのが、重門と重定(重安の子。「岩沼藩三万石ものがたり」第6話参照)
 ※2 仏教:造酒祐が綱村に仏教をすすめたとされる。
 ※3 大年寺:この寺跡には、綱村以降の仙台藩の歴代藩主のほとんどの墓がある。

ひだりからふるうちみきのすけとだてつなむら←古内造酒祐(左)と伊達綱村

 ふるうちけけいず

第5話 古内の帰岩(後編) 

  古内造酒祐(重直)が岩沼を没収された翌年の1687年、田村氏と入れ替わりで岩ヶ崎(栗原市栗駒)に移っていた古内氏本家の吉(げんきち)(後の重興(しげおき))が岩沼に戻ってきます(第4話「系図」参照)。
  源吉は、造酒の頃に仙台藩から預かった家臣を「桜小路」に継続して住まわせ、また、田村時代に職人屋敷が置かれた「片町」などに自分の家臣を住まわせます。「北の町」には、西多賀鈎取から移住してきた足軽が住みました(後段「こばなし@」参照)。
  松尾芭蕉が二木の松を見て感嘆の一句を読んだのもこの頃です(1689年)。芭蕉に同行した良(そら)は、日記(※1)に「武隈の松(二木の松)がある辺りは、古内源吉の侍屋敷だ」と記しています。また、『おくのほそ道』には「岩沼に宿る」という表現がありますが、この日記により、残念ながら泊まっていなかったこともわかります。芭蕉が「宿る」としたのは、仙台路を急ぐ中、宿場町岩沼に後ろ髪をひかれたからかもしれません。2人はその後、田村の治める一関で2泊、尾花沢(※2)ではなんと10泊もしています。
         *  *  *  *  * 
  ところで、造酒源吉が仕えた伊達村(つなむら)は、伊達騒動の反省から、藩主に権力を集中させようとします。1703年には仙台藩主直属の「矢ノ目足軽」を新設しますが、その直後、独裁政治に対して有力家臣らの反発に遇い、隠居に追い込まれました。

ひだりからふるうちげんきちとばしょう そら←(左から)古内源吉と芭蕉、曽良

≪こばなし@≫   復元された竹駒奴

 「北の町」への足軽移住(前述)から約220年後、この足軽の子孫は、竹駒神社から古内家を介してある協力要請を受けます。それが、藩政時代の大名行列を模した「竹駒奴(※3)」の復元でした。1913年(大正2年)に復元された「竹駒奴」は、今も神社の初午大祭時に披露されています。

※1 日記:『曽良旅日記』のこと。この中で、曽良は「古市源七」と記しているが、これは「古内源吉」の誤りとされる。
※2 尾花沢:岩沼市の友好都市
※3 竹駒奴:現在、市指定文化財になっている。

 

第6話 仙台藩5代藩主と岩沼

 伊達綱村の隠居を受けて仙台藩第5代藩主になったのが、綱村の従弟の伊達吉村(よしむら)です。吉村は、岩沼から一関に移った田村建顕(たけあき)の養子になることが決まっていましたが、幕府へ届け出る直前、綱村の跡を継ぐことになり、1703年、藩主になりました。
  吉村にとって最大の課題は、綱村時代に深刻化した財政難(第4話参照)を解消すること。吉村は、藩の内政改革に奮闘し、財政再建を果たします。このことで、後世「御中興の栄主(ごちゅうこうのえいしゅ)」と呼ばれました。テレビ時代劇『暴れん坊将軍』で知られる徳川吉宗は「吉村の政治と熱心な仕事ぶりは随一。諸大名は吉村を見習え」と褒めたたえています。
  吉村は学問や宗教の振興にも力を入れました。後の藩校「養賢堂(第2話参照)」の前身となる学問所を創設。また、伊達家歴代の中で最も竹駒神社を手厚く保護し、1710年に立派な社殿(※1)を建てたほか、『竹駒神社縁起記(※2)』をまとめさせ、奉納するなどしています。
  さて、現在の竹駒神社には田村氏古内氏との関わりを示すものが残っています。例えば境内の忠魂碑。岩沼藩初代藩主田村宗良の墓石を削って作られたものと言われています。また、随身門の南側には古内重興(第5話参照)が寄進した石燈籠が2基あります。

うえからきゅうしゃでん しげおききしんのいしとうろう だてよしむら←(上から)旧社殿、重興寄進の石灯篭、伊達吉村

≪こばなしA≫   岩沼では狐の毛皮は着ない  

 時は戊辰戦争。一関藩田村氏の家臣が岩沼まで陣を進め、竹駒神社の近くに滞在した晩のこと、人馬の足音で「夜襲だ!」と大騒ぎに。慌てた多くの兵士が岩沼城の堀に落ちて溺れてしまいました。翌朝の調べで、溺れた兵士は狐の皮を着ていたことが判明。これを聞いた伊達の殿様(※3)は、「田村氏はかつて岩沼を治め、竹駒様の御使者が狐であることを知っているはず。それなのにこの失態は何事か。即刻一関へ引き上げよ!」とお怒りになったそう。これを聞いた古内氏の当主が間に入り、一緒に殿様に詫びてようやく許されたのだとか。

※1 社殿:吉村が造営した社殿は、平成2年の放火で焼失。現在の社殿は平成5年に再建したもの。
※2 縁起:神社の起源や沿革、由来を記したもの。
※3 殿様:仙台藩第13代藩主伊達慶邦。

 

第7話 全国有数だった岩沼馬市

  かつて岩沼には馬市で大賑わいした時代がありました。岩沼の馬市は、竹駒神社の創建と同じ頃、国司小野篁(おののたかむら)が神社に賑わいをもたらすために始めたとされています。仙台藩内随一(※)と言われた岩沼の馬市は、「御日市(おひいち)」とも呼ばれ、幕府の馬買役人も来るほどでした。
  明治4年、岩沼は政府の軍馬購買地に指定され、馬市が盛んになります。明治天皇が、明治9年と14年の東北巡幸(じゅんこう)の際には岩沼の名馬をご覧になっています。日露戦争(明治37〜38年)の後には、軍馬の需要が増えて馬市がますます盛んに。大正初期には、岩沼は軍馬三大購買地に名を連ねました。
  岩沼から宮内庁へ納められる馬も多く、昭和27年に現在の天皇陛下が皇太子になる儀式の際に馬車を引いた馬や、美智子様とのご成婚パレードを務めた馬も岩沼から買い上げられた馬でした。また、平成23年6月に岩沼を被災地訪問された皇太子殿下浩宮様が、幼少の頃乗馬を始めるときにお乗りになった馬も岩沼から納められた馬でした。
  賑わいを見せた馬市も、終戦で軍馬が無くなるとその姿を消します。その後は、馬検場で牛市が行われました。乳牛、肥育牛、役牛の増産を目指した転換政策は成功し、牛市も大きな収益を上げますが、それも20数年程の間。時代の流れもあり、昭和46年馬検場の所に「参集殿」が建てられたことで、岩沼の馬市・牛市の歴史は終わりを告げました。牛市は仙台市中田の家畜市場に移されます。
  岩沼の名を全国に知らしめた岩沼馬市。今は、馬事博物館とその前にある馬検場址碑が往時の面影を伝えています。

じんじゃのけいだいでおこなわれたいわぬまうまいち←神社の境内で行われた岩沼馬市

≪こばなしB≫   馬であふれた町  

 明治の中期には、岩沼では800頭を超える馬が市にかけられたこともありました。馬が横にズラリと並ぶ列が、赤鳥居から大手町を通って、二木、館下、栄町、北の町、桜小路、そして志引のお墓近くまで続きました。馬を売り買いする博労(ばくろう)が生きの良い掛声をかけて忙しそうに走り回る中、岩沼尋常高等小学校(今の岩沼小学校)の子どもたちは、馬の間を左右に縫うようにして学校に通ったそうです。町が馬であふれていた様子が目に浮かびます。市の西部の千貫山の稜線の松並木(千貫松)が「馬の鬣(たてがみ)」のように見えたと表現されたのもこのような町の状況からなのでしょう。

※仙台藩内随一:「岩沼藩三万石ものがたり」第9話参照

第8話 庶民教育に貢献した「養拙堂」

 一関に移った田村建顕の「学問立藩」から約120年後、江戸時代後期の全国的な文運興隆の流れの中、岩沼にも私塾や寺子屋などがつくられます。
  文字の読めない足軽が日常生活にも不自由しているのを知り、教育の必要性を痛感した古内家の家老・伊東恭蔵(いとうきょうぞう)は、足軽の強制教育を思い立ち、1820年頃に仙台藩校「養賢堂」(ようけんどう)(第6話参照)を意識して「養拙堂」(ようせつどう)と名付けた家塾を開きます。養拙堂では百姓や町人も受け入れたことから、大手町にあった恭蔵の屋敷(現在の「ホテル原田」の場所)はたちまち一杯になり、女子は屋内、男子は屋外に莚(むしろ)を敷いて講義が行われるほどの盛況ぶりでした。
  養拙堂から出た学者に、古内家の家老になった只野吾(ただのきんご)吉田庵(よしだきくあん)がいます。欽吾は一度読んだ本は一字も誤りなく暗記してしまうほどの秀才で、若くして自宅の寺子屋「只野塾」で教授しました。名誉市民の只野文哉(※1 ぶんや)は、この欽吾の曾孫です。また、菊庵も多くの人に書道を教えましたが、その中には、またいとこにあたる岩沼出身の郷土史家鈴木雨香(※2 うこう)がいます。
  恭蔵没後は、子の伊東行蔵(庵。※3 ぎょうぞうとつあんが養拙堂を引き継ぎ、スパルタ式の教育を行います。それでも庭の莚では常に200人を超える子どもたちが学ぶほどで、まさに岩沼が誇る庶民教育の一つでした。養拙堂は、明治6年、岩沼小学校創立当時の仮校舎(※4)となります。
  ちなみに、「養拙堂」の伊東訥庵は、「養賢堂」学頭の大槻磐渓(おおつきばんけい)(第3話参照)としばしば激論を交わしていました。というのも、幕末、仙台藩は、佐幕(※5)、勤皇(※6)、仙台独立の三派に分かれて論争しており、訥庵は勤皇を、磐渓は佐幕を支持していたからです。最終的には磐渓の支持を受けた佐幕派が勝利。幕府を支持することになった仙台藩は戊辰戦争に突入し、敗戦を迎えることになるのでした。

※1只野文哉:国産で初めて電子顕微鏡の開発に成功した。亡くなる直前まで岩沼の小中学校で子どもたちに講演を行い、教えを受けた児童は延べ4万人にのぼる。
※2 鈴木雨香:「仙台叢書」「仙台風俗史」など著書多数。詩文・碑撰・書道等にも優れ、その撰書は市内各所で見られる。
※3 行蔵:「こうぞう」と呼ぶ説もある。
※4 仮校舎:岩沼小学校は、3カ所の家塾を仮校舎として発足した。
※5 佐幕:尊攘・倒幕に反対し、幕府を支持すること。
※6 勤皇:天皇に忠義を尽くすこと。

おおつきばんけいいとうとつあん←大槻磐渓(左)と伊東訥庵 

ようけんどうようせつどう←養賢堂(左)と養拙堂

 

第9話 豚先生の夢

 家老伊東行蔵(訥庵。とつあん)は、版籍奉還(明治2年)に際して財政難にあえいでいた古内家の建て直しに奮闘します。財政を一応安定させると、次は家塾「養拙堂」(第8話参照)のある自宅敷地内に豚舎を建てて、養豚事業に着手しました。これは、幕末に読んだアダム・スミスの『国富論(こくふろん)』を実践したもの。「日本は豚を飼育して肉食を普及し、健康な国民をつくらなければ。そして産業を振興させるのだ!」と、訥庵は壮大な夢を描いたのです。岩沼での豚飼育第一号となったこの事業には、養拙堂の学童たちも駆り出されました。子どもたちは重労働や臭いなどで大変な思いをしたようです。
  しかし、ときは明治の初め、肉食が一般庶民には浸透していなかった時代です。そんな中でもハムのような加工品を製造するほどの熱の入れようでしたが、採算がとれず失敗に終わります。多額の借金が残り、全財産を差し押さえられて、伊東家は没落してしまいました。
  時は流れ、文明開化により西洋文化が国内に広まってくると、食生活にも変化が現れます。後進の努力もあり、明治維新から30年ほど経つと、岩沼にも豚肉の消費が少しずつ広がってきたのです。1921年(大正10年)には町営の屠場(食肉処理場)も設置されて、新鮮な肉がすぐに入手できるように。多くの人が豚肉を食べられるようになりました。その後、岩沼にはとんかつ屋やホルモン屋が出来始め、次第に増加。ホルモン焼きは、近年では、B級グルメ「岩沼とんちゃん」として注目され、人気が出ています。「豚先生」こと訥庵の大きな夢は後年達成されたと言えるでしょう。

とんしゃ←豚舎

第10話 城から駅へ

 岩沼のお城の始まりは、国府多賀城へ向かう時の旅館「武隈館(※1 たけくまたて)」で、三十六歌仙の一人である重之(みなもとのしげゆき)が1000年頃に築いたと言われます。伝承によれば、1083年に源義家(※2 みなもとのよしいえ)が「鵜ヶ崎城」(うがさきじょう)と名付けました。東(あずま)街道・浜街道の交通の要衝に位置し、戦国時代は伊達家の家臣が拝領しました。
 
近世の岩沼城は16世紀後半頃に建てられたと考えられます。「東の関ヶ原」といわれた1600年の慶長出羽合戦の時には、白石城(※3)攻撃に向かう前に政宗自身も2泊しています。その後「岩沼要害(岩沼館(※4 いわぬまたて))」と呼ばれましたが、田村氏岩沼藩の間は「岩沼城」とされました。
  「城」というと天守閣や石垣が思い浮かべられがちですが、岩沼城は自然の丘陵地を利用し、武家屋敷風の構造だったようです。また、岩沼藩の頃に建てられた大手門は2階建ての立派なもので、引き継いだ古内氏も大切に扱いました。
  しかし、そのお城が姿を消してしまう日が来ます。それは鉄道を敷くためでした。汽車が町の発展に役立つと考えた古内家第13代の古内広行は、町の中に駅をつくる(※5)ことを決め、城山を削って用地を提供したのです。これによって岩沼駅(※6)は、白石・大河原・仙台・岩切・塩釜の各駅とともに県内最初の駅となり、1887年(明治20年)に上野−仙台−塩釜間で東北本線(※7)が開通しました。その後も常磐線の開通や複線化等で城山は削られたため、現在は、岩沼駅西口ロータリーの南側にわずかに岩沼城の名残りが見られるだけとなっています。

 ※1 武隈館:場所はわかっていない。武隈は岩沼の古称。
 ※2 源義家:八幡太郎義家とも呼ばれる。後三年の役の後、義家に助けられた藤原清衡により奥州藤原氏平泉の繁栄が始まる。
 ※3 白石城:当時の白石城は、上杉景勝の領で、政宗は上杉軍を奥州に引き止めておくよう徳川家康に求められていた。
 ※4 岩沼館:1615年に出された一国一城令により、岩沼城は岩沼要害(岩沼館)と呼ばれるようになった。要害は、城に次ぐ拝領施設のこと。
 ※5 町の中に駅をつくる:角田・丸森地域では、汽車が出す煙が養蚕に影響するのではないかと心配した反対運動等があり、鉄道の敷設ができず、白石・大河原地域に路線変更を余儀なくされた。また、町から離れた不便な所に駅をつくらなければならなかった地域もあった。
 ※6 岩沼駅:当時は岩沼停車場と称した。  ※7 東北本線:当時は東北鉄道で、後に東北本線と改称。

おおてもんときしゃ←岩沼城の大手門と汽車

 

第11話(最終回) 再生のまち

 歴史を振り返ると、岩沼は「再生のまち」と言うこともできそうです。古くから交通の要衝だった岩沼は、旅人の疲れを癒し、翌朝元気に再出発させる宿場町としても栄えたからです。岩沼が「再生のまち」となる下地は、ずっと昔にできていたのかもしれません。お城の始まりである“武隈館(たけくまたて)”は、多賀城に向かう人々の旅館(休憩所)として建てられています。江戸時代には、多くの旅人はもちろん、参勤交代をする仙台藩主や諸大名も岩沼要害や八島本陣などに泊まりました。奥州街道「岩沼宿」は、翌朝再生して旅立つ人々の姿を見送ってきたのです。
  岩沼では、他にも多くの人やものが再生しました。かの松尾芭蕉は、武隈の松(二木の松)が昔から植え継がれ再生されているところに感激しました。坂上田村麻呂の末裔とされる田村氏は、豊臣秀吉に滅ぼされた後、岩沼で大名として復活再生を果たしましたし、馬市は、岩沼藩の頃、大幅に日数を減らされ一時衰退しますが、後に全国に知られる大馬市へと再生しました。近年では、ムツゴロウさんが大学院生の頃、失意の中に岩沼を訪れ、人々の温かさなどに触れて「復活できた」、と著作(※)に記しています。また、市をあげて誘致した年金保養施設「グリーンピア岩沼」が破たんした後も、岩沼市では多くの市民の皆さんのご支持とご協力を得て再生させました。新しく生まれ変わった施設は、学習と健康づくりの拠点として活用されています。          *  *  *  *  *  *
  私たちのまちは、東日本大震災で史上最悪の大惨事に見舞われました。とても悲しく辛い出来事でしたが、岩沼は必ず再生し、“愛と希望”に満ちた復興を果たします。

 〜併せて『岩沼藩の前のものがたり』もお読みください〜

※著作:ムツゴロウの放浪記(畑正憲 著)

 

いわぬまじゅく←奥州街道「岩沼宿」

 

担当・問/総務部政策企画課(電話0223−22−1111 内線529)
参考文献/岩沼市史、宮城縣史、仙台市史、一関市史、仙台風俗史、シリーズ藩物語一関藩(現代書館、大島晃一著)、竹駒神社、岩沼物語(正・続)、ふるさとの心 岩沼物語補遺、いわぬま歴史散歩119、すいとく(平成21年7月号、9月号)、岩沼小学校創立百周年記念誌

岩沼藩三万石 イメージマーク

岩沼藩イメージマーク

■イメージマークについて

 当時の家紋の一つである九曜紋と岩沼のシンボルであった松と千貫山、岩沼藩に多大な影響を与えた阿武隈川をもとに図案化しました